【修論ゼミ(2)】修論で「オリジナルな知識」を生み出せるのか?
さて、第2回です。
前回は、修士論文という成果物の中途半端な性格についてのお話でした。修士論文とは研究者の仲間入りをする意思表示であるから、オリジナルな知識を生み出す営みの一部であることを示せなければならない。そう仮置きしてみました。それはオリジナルな知識を生み出すことそのものでもいいのだが、2年間というスパンでそれをやることはなかなかに窮屈だ、ということも言いました。本当にオリジナルな知識を生み出すことが必須になるのは博士論文であるから、修士課程とは元来そのための準備であり、基礎力の養成という性格があるのだ、ということにも触れました。
どうやら私の中には、修士論文には、オリジナルな知識を生産できているか否かよりも大事な基準がありそうだ、という予感があるようです。おー、なんだ、オリジナルじゃなくてもいいのか、なんだか気が楽になったぞ、というのは早計です。オリジナルな知識を生産するってそんな簡単なことじゃないんだよ、ということでもあるし、どうやったらオリジナルな知識を生産したことになるのかを、ちゃんとわかってるということは示してね、ということだからです。
「オリジナルな知識」って何?という話は、卒論ゼミの第3回(https://note.com/udonslax/n/nf98c0541b5c7?sub_rt=share_pw)でも触れています。要は、既存知識の総体にちょこんと付け足す、ということでした。卒論ではこの「総体」というのを把握するところまでいける訳がないので、オリジナルな知識を生み出すことを基準にはできない、ということを、前回も言いました。もちろん修論にせよ博論にせよ、既存知識のすべてを把握している人なんていません。実はこの「総体」を「把握」するというのは、「全部知っている」ということではないのです。そうではなくて、自分が生産しようとしている知識を「既存知識と関係づける」という作業なのです。
よく科学的な営みのことを「巨人の肩の上に立つ」と言ったりしますが、何回か前の(対面の)ゼミでこのフレーズが出てきた際、「巨人の肩になんて簡単には乗れないんだよ」と私が口走ったのを覚えているでしょうか。このフレーズは、先人たちの知識の上に立つからいまの私たちはより遠くを見通せるのだ、という意味の比喩です。これが可能なのは、本当に過去に生産された知識を全部学ぶからではなく、「こう学べば巨人の肩の上に立ったことにしてよい」という状況に身を置くことができた場合です。そのために人類は、様々な学問の体系を整えてきたのです。これをディシプリン(discipline)と言います。
研究者の仲間入りをするということは、こうして整えられてきた数々のdisciplinesのいずれかに入門し「弟子 a disciple」になることを意味していました。この場合、その分野の最先端にさえ追いついていれば、その先にあるものが全部「巨人の肩」の先にあるものだと前提していい、ということになります。伝統的な学問分野というのは、このようにしてどんどん「新発見」を繰り返して発展してきた訳です。(もちろんそのdisciplineで「最先端」と目される領域やアプローチが「正しい」とは限らず、論争を巻き起こすことはあります。その場合にも、そのdisciplineのどこかの時点に遡ったところから積み上げることで、代替的な「最先端」を築く、という営みができるでしょう。この辺りのお話は、例えば物理学のなかの量子力学なんかを、念頭に置いてます。)
「意味していました」と過去形を使いましたが、もうかなり前から、このようなシンプルな前提は成り立たないことの方が多くなっているのではないかと思います。「学際的」という言い方がされるようになって久しいわけですが、これは英語では元々 interdisiplinary という単語でした。その後 multidisciplinary という言い方が出てきたり、いまでは transdisciplinary と言われることもあるようです。伝統的なdisciplineの中で新しい知識を突き詰めていくと、どうしてもその範囲が狭くなってしまいます。一方、現実の世の中はどんどん変わっていきますから、既存のdisciplinesの枠組みだけでは解くことのできない問題が無限に生じている訳です。これを既存の複数のdisciplineが協働して乗り越えましょう、というのが「学際的アプローチ」というのがもてはやされる事情です。
ある現代的課題を数々の既存学問の叡智を集めて解決しようというのは、いかにも格好いいですし、人類の営みとしては至極正しいことだと思います。しかし研究者の世界に飛び込もうとする一個人にとっては、とても苛酷な状況だと言えます。ある研究関心に従って学問領域を選んだとしても、それが学際的領域であった場合、一体どのdisciplineのdiscipleになろうとしているのかが、自明ではなくなってしまったからです。つまりオリジナリティの基盤となる体系が、足元に整っていない可能性が高い、というわけです。
ここまで、「(学問)分野」と「(学問)領域」という言い方を、意識して使い分けていました。「(学問)分野」は、ここでは discipline の意味に限定しています。一方「(学問)領域」というのは、subject area という英語と対応させています。後者は、研究の関心となる対象を中心として設定された学問の分類を指します。Urban studiesとか、environmental studiesとか、global studiesとか、gender studiesとか、そういう言い方をされるものを、subject areaと言います。これらはすべて、研究対象をかなりの程度共有しているけれど、多彩なdisciplinesを含み込んだ inter-/multi- disciplinaryな学問です(油断するとこちらも「分野」と呼びたくなります。危ない、危ない)。
少し脱線しますが、厳密には subject area と呼んだ方がよさそうなものも、歴史が積み重なると、disciplineと認定される場合があります。例えばイギリスでは、social policyという領域が、disciplineだと言われることがあります。社会政策という政策領域を対象とした学問の集合だと言ってよさそうなのですが、その塊としての知的蓄積が強固になれば、disciplineと呼んでも違和感がなくなっていく、ということなのでしょう。
これまた脱線ですが、反対に例えば「スポーツ社会学」という言い方をされる領域がありますが、これは字義通り理解すれば「社会学」というdisciplineの下位カテゴリーのはずなのですが、その内実をみるとそうとも言い切れない感じがしてしまうような領域です。私はいま「スポーツ社会学」をやっていると名乗るようにしてますが、実はこの学問を体系的に学んで身につけた訳ではありません。特に私が大学院生になろうとしていた時期の日本のスポーツ社会学は、私には非常に未成熟な領域にみえたので、そういうコースを進学先に選びませんでした。なんとなく、いきなりこれを選んだのではdisciplineが身につかなかろう、という直観が働いたのだろうと思います。
前回触れたように、私のdisciplinaryなトレーニングは、フラフラと変わりました。研究対象はずっとスポーツ(とその周辺)でしたが、sport studiesという領域の学位を修めたこともありません。博士課程は urban studiesという領域で、そのアプローチは政策学的なものでした。政策学もまたかなりあやふやな領域で、政策学という学位はなかなか見当たらないと思います。先に挙げた「社会政策 social policy」や「公共政策 public policy」という大学院のコースは多いと思いますが、それらもあらゆる政策学的研究を包含したものというふうには思いません(参った参った)。
そんな私が「スポーツ社会学」をやっていることにしてもいいかな、と思えるようになったのは、自分がようやく「社会学」というdisciplineに属すると言っていい自信を得たからです(まだ「社会学者」と言い切るのは気が引けますけど)。社会学のdiscipleがスポーツを対象にしているのだから、スポーツ社会学が専門だと言ってよかろう、という訳です。それ以前には、自分の専門を「政策学」といってみたり、urban studiesの上位カテゴリーといわれることもある「地理学」だと(相当遠慮がちに)いってみたりしていました(いずれも disciplineと言い切るには弱い塊なので、仲間に入れてもらいやすかったということかもしれません)。
話を戻しましょう。「学際的アプローチ」が支配的な昨今は、「巨人の肩の上に立つ」ことは容易ではない、という話をしていました。ある学問領域に弟子入りしても、まだそこに巨人が姿を現してくれていないことが多いからです。つまりここでいう「巨人」とは「既存知識全体」ではなく、先人たちが確立してくれた体系的な基盤、すなわちdisciplineのことだったのです。だから disciplineではなくsubject areaを選んでしまった場合、やっぱりどの巨人の肩を借りてオリジナリティを目指すのか、ということは、意識して選んだ方がいいということになると思います。学際的領域にも成熟度の違いがありますから、より成熟したものなら結構な巨人が何人か手を携えて歩いてくれていて、その肩から肩に乗り換えるような形で、自身も学際的にオリジナリティを目指すことができるかもしれません。でもそうでない場合、その領域の外に出て、依って立つ巨人を探しに行かないといけないかもしれません。
抽象的な比喩だけでは、分かったような分かんないような話なので、もう少し具体的に考えてみましょう。巨人の話の前に、ある知識がオリジナルであることを示すことは、それを既存知識に関係づけることだ、と言いました。Disciplineというのは、すでに体系的に関係づけられた知識の集合です。だからあるdisciplineにしっかりと依って立つことは、自分の発見したものを既存知識と関係づけることが比較的容易だということになります。しかしそうした体系が弱い領域で研究をする場合、知識を体系的に関係づける、という作業を自分自身で行わないといけないわけです。そして実は、体系の弱い学問領域に体系化された知識を付け加えるということは、それ自体がオリジナリティだとも言えるのです。
ここでオリジナリティには(少なくとも)二つの水準があることが明らかになりました。一つは、発見された知識そのものの新しさです。これがどう新しいのかを示したければ、既存知識と体系的に結びつける必要がある。もう一つは、知識の関係づけ方そのものの新しさです。これまでは試みられていなかったやり方で知識が関係づけられることが、新しい知見の導出につながったとする。あなたのおかげでこの見方を手に入れた人類は、これまではみることのできなかった世界を難なくみることができるようになった訳です。この二つ目の水準のオリジナリティは、修士論文の段階で見出されることはなかなかないでしょう。でも学問をより大きく進歩させるのは、実はこっちの方です。そのインパクトが大きければ、パラダイム・シフトと言われるようなものにもなり得ます。
どんどん修士論文から離れていってしまうようです。すみません。でもだからこそ、やっぱり修士論文のオリジナリティというのは、なかなか難しいということなのです。
さて、具体的になかなかならないので、いきなり具体的にしてみます。オリジナルな研究の新しさには、そこから導出される知見の新しさと、その導出の仕方の新しさの二つがあり得る、という話でした。修士論文を書こうとする時、この両者に気を配ろうとしてみましょう。この二つは、修士論文を書くときに参照する参考文献の種類に対応しています。
一つ目は、自分と研究関心を一にする先行研究群です。まさに対象領域に存在する知見の束を把握し、そことの違いを示すということです。一般的にはliterature reviewというと、これを指します。自分が対象とする主題 subject は、必ずしも自分が(学位取得のために)所属する学問領域と一対一対応していないかもしれません。複数の学問領域や学問分野にまたがって、自分と関心を共有する研究論文を集めて、その知見とアプローチを体系化する必要があります。
二つ目は、自分がどのような手続きで、既存研究では明らかにできていない知見に辿り着こうとするのかを教えてくれる先行研究群です。すなわち研究の方法論に関わります。これには二つの作業が必要です。まず自分と関心を一にする既存研究ではどういう方法論が採用されてきたのかを、いくつかのアプローチに分類して整理することです(アプローチと方法論の違いは、方法論の方が各研究に個別的なもので、似たような方法論の集まりをアプローチと呼ぶ、という感じで理解しておいてください)。だから一つ目をやるときに、アプローチも体系化しておいて、と言ったわけです。そうして、既存のアプローチの限界がなんだったのか(限界があるから、まだ解けない問題があるのです)を、突き止めましょう。
その上で、自分がどのようなアプローチに依拠して方法論を組み立てるのかを、決めないといけません。このアプローチ/方法論の選択というのが、長い目でみると(=研究者としてのキャリア形成上)ものすごく大事になります。対象領域の方は、自分の関心が移り変われば、どんどん別のものに展開していくかもしません。ところがアプローチ/方法論というのは、一定期間以上のトレーニングを通じて身につけるものなので、対象領域が変わったからといってコロコロと変えることが難しいのです。もちろん自分の研究対象を変えることを前提にする必要はありません。しかし研究者になるということが職業選択である以上、研究対象を自ら選べない状況も想定しておいた方がいいです。そうした時、汎用性が高いのはアプローチ/方法論の方なのです。
厄介なのは、アプローチ/方法論を選択するという作業が、現実的にはそんなに選択肢があるわけではないし、また偶然や運にも依存するものだということです。教科書的には、自ら設定した問いに対応して、適切な方法論を選ぶべし、ということになります。でも方法論というのはとてもたくさんあって、しかも汎用性があるので、自分の研究の対象領域とは全く別のところから借りてくることもできます。自分のsubject areaの先行研究だけをみていても、適切な方法論に出会うことができないかもしれない。そうなった時、無限の可能性から選び取るというよりは、たまたま知っていたとか、たまたま先生に勧められたとか、そういう理由で採用されることが多かったりします。そして方法論を選んでしまうと、その方法論で答えを導くことのできる問いの形式というのが、ある程度決まってしまうという性格もあるのです。
勘のいい方はお気づきかもしませんが、アプローチ/方法論の方がdisciplineぽいのです。あるdisciplineに弟子入りしたdiscipleが、ここではこうやってやるもんなんだ、馬鹿野郎!と親方や先輩に小突かれながら(disciplineには「規律」とか「懲罰」という意味があります)、見様見真似で身につける。そういう性質が強い。上からわけもわからず与えられたやり方で、とにかくも研究をやり切ってみる。研究者の世界に「弟子入り」宣言をする修士論文は、もしかするとそういうものなのかもしれません。
そうだとすれば、二つのオリジナリティのうちの二つ目(知識を導く方法の新しさ)は、やっぱりなかなか望むべくもない。新たな知識を導出できる確証なく、選択の余地なく選ばなければいけないのですから。そしてなんと、そうだとすると、一つ目のオリジナリティすら、担保されないことになる。いままでのやり方では導出できなかった知見がある。そこを突破するには、新たなアプローチ/方法論が必要である。でもdisciplineの外には、簡単には出してもらえない。ある体系的な知の導出の方法がdisciplineですから、そこからはみ出したものが「ちゃんとした知識」であるとはなかなか認められない。でもそれでは、その体系ではアクセスできない知に、アクセスできないままになってしまう。
今回の結論が出たようです。修士論文において大事なのは、あるdisciplineにおいて正当だと認められたアプローチ/方法論に忠実であることだ、ということです。体系であるからには、その体系の外側にあるものにはアクセスができないという限界がある。それでもまずは、その体系のなかに我慢して止まろうとする規律(discipline!)が求められる。これが「オリジナルな知識を生み出す営みの一部」であることを示す、ということの第一の必要条件だということに、ひとまずしておきましょう。
次回は、「関心」を「問い」に育てる、ということを考えてみる予定です。問いはdisciplineによって規定される側面がある、ということにも、きっと戻ってくることになるでしょう。
それではまた!
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