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全然決まらなかった作曲 めぐまれた編曲

曲は100曲書いてからがスタート

前回の記事で書いた通り6曲しか作ったことない状態で
奇跡的に事務所と専属契約した訳だけどゆうても6曲。
作曲能力的にはまだまだofまだまだ。
当時の曲を聴き返してもクソ曲ばかり。
そりゃどこも採用してくれませんわ。

単純に作曲に慣れていないってのもあるし、
Daw(パソコンで音楽を作るソフト)の扱いも全然効率的じゃない。
ベースラインだったらいくらでも作れるのに、、。(笑)

当初はギターなんて高校生ぶりに持ったから全然弾けないし
鍵盤もコードがちょっと押さえられるくらいで
オケを作るのも苦労した。

仮歌詞なんてちんぷんかんぷん。
小学生が書くようなポエムも満足に書けない。
さらに自分で入れる仮歌が壊滅的にイケてない。

こんなんでどこかに採用してもらえるカモと
思っていたところが恐ろしい(笑)

それでも月に8〜10曲くらいはデモを上げていたと思う
で、実際採用されたのはいつ頃ですか?と言うと、

丸2年後

それまで歌物の曲は一切決まらなかった。
それからはまあまあ採用されるようになったのだけど
中々に辛い時期だっとように思う。
自分には才能がないのではないか?と思うに十分な期間だし(笑)

初めてアーティストに提供した曲がこちら

思い出深い曲。

なんにせよ仕事にするには物量は大事。

腕に自信があっても30曲、
人並みの能力でも50曲、
自信がなければ100曲、

これくらいは書かいてやっとスタートラインなんだなと改めて思った。
センスとか才能の差はその後やっと出てくるくらい。


編曲のチャンスは与えられていた

曲は全然決まらなかったけど
『俺、アレンジャー!!アレンジやりたい!!』と手を挙げていたので
事務所もそちら方向に展開してくれてて
むしろ曲が決まらなかった2年間でアレンジは結構やらせてもらっていた。

flumpool、関ジャニ∞、水樹奈々さん、栗山千明さん
その後多くの編曲させてもらう戸松遥さんなど

アレンジャーとして無キャリアだったのに起用してもらっていたのは
正直恵まれていたと思う。
チャンスが多いおかげで多くを知れたしスキルもその分ついた。
経験って本当に大事。

初めて編曲で参加した曲

時に2日間寝る時間がないキッチキチ&こけたら終わりみたいな
スケジュールだったり、アレンジ修正出まくりだったり
大変な事も多かったけど自分が参加したCDが店頭に並ぶのは
やっぱり嬉しかった。

劇伴、BGM

歌物は全然決まらなかったけどインストのBGMは
ちょいちょい決まっていた。決めうちもあったし。

ちなみに最初の歌物の著作物は上に貼った『恋愛模様』だけど
インストも入れると某大手男性アイドルグループの
コンサートで使われたBGMが最初の著作物。

ライブではインストのバンドもやっていたし
歌がない分、自由度も高くてその意味では気が楽で楽しかった。

報酬は機材に

あるあるだけど自分も当時(今も若干)報酬の多くは
音楽の機材に投入されていた。
なんも持ってないし、ソフトも持ってないし。

最低限な物が揃ったのっていつ頃だろう。
こんな生活をして6年目くらいの頃だった気がする。
ほら、音楽の機材って高いから(笑)

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何回かに分けて音楽人生を振り返ってみたけど

大変だった時期をタイムマシンで戻ってもう一回やれって言われたら
絶対に嫌だ。体壊しちゃう。お金ないし(笑)

でもなぜか楽しい思い出でピカピカ光ってるんだよな。

振り返り記事はこの辺で一旦お休みにして
次回からは今思ってる事とかにする予定です。

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