政府が国民を苦しめる欧米、国民が国民を苦しめる日本
1年前の2021年の秋は、カナダ、米国、欧州や豪州では、マスクを着用しなかったために警察に暴力を振るわれる・逮捕される、ワクチンを接種しないために解雇される・生活を著しく制限されるなどの動きがあり、自由が急速に失われる世界に大きな恐怖と不安を覚えました。
当時は、自由と正常性を奪う医療専制政治の観点からは、日本はまだましに見えました。警察がマスクを着用しない市民に暴力を振るったり、ワクチンの接種を拒否する市民が収容所に送られたりすることはないように思えたからです。
欧米は私権が失われディストピアまっしぐらかと思われましたが、意外にも、1年経った今は、医療専制政治がじわじわとエスカレートし、私権剥奪が進んだのは欧米ではなく日本であるように見えます。本記事では、公衆衛生の名のもとに私権制限を進める医療専制政治が欧米と日本でどう進んだかの構造について、特に感染防止対策としてのマスク着用を題材として考察します。
カナダには「マスク警察」がいないし、同調圧力もない
私はカナダのブリティッシュコロンビア州(以下「BC州」)に住んでいます。BC州の屋内マスク義務は2022年3月に解除されました。また、連邦政府による航空機・列車、空港内でのマスク義務も2022年10月に解除されました。私は、2021年の10月から2022年6月まで日本に滞在しましたので、2021年から2022年を両国で過ごした経験からこれを書いています。
BC州の屋内マスク義務は解除されましたが、2022年10月現在、屋内でも屋外でも任意でマスクをしている人たちはいます。場所によって違いますが、目視の概算で全体の2-3割でしょうか。街の中心部に行くとこの率はもっと小さくなります。
しかし、医療機関を除き、建物に入る際にマスクを要求されることはありません。(入口に推奨と書かれていることはある。)2022年3月まで義務であり、屋内ではマスクを着用することに慣れていたにもかかわらずです。
9月から新学期が始まりましたが、学校でもマスクは完全に任意です。高校生の息子の話では、学期が始まったときに学校でマスクを着けている人は5%くらいではないかということでした。余談になりますが、黙食のようなルールもありません。
私は健康で無症状な者がマスクを着用することは感染防止には無意味と考えていますので、外出先でマスクを着用しません。しかし、施設・店舗・マスク着用者などに着用をお願いされることもありません。
ましてやマスクをめぐって不愉快な思いをしたり、トラブルに巻き込まれたこともカナダでは今まで一度もありません。高性能のマスクをしてコロナを恐れているような人の近くを私がマスクなしで通り過ぎても、声をかけられたことさえありません。
マスク着用者と非着用者は共存していますが、お互いに干渉することはないように見えます。例えばマスクなしで大声で喋る人をマスク着用者が咎めているといった光景を見たことはありません。マスク着用したい人はする、したくない人はしない、そしてお互い干渉なしの社会が機能しています。
事業者や国民が国民を苦しめる日本
一方、日本ではマスクは条例や法規によって義務化されていません。任意です。しかし、街では大多数の人がマスクを着用し、法的には任意にもかかわらず実質強制となっている場所も珍しくありません。
例えば日本の航空会社の航空機は事実上強制に限りなく近いと言ってよいでしょうし、一部の小売店などもマスクを着用しない客を拒否する方針を実施していると聞きます。また、学校のマスク着用の圧力も酷いと聞いています。
私自身も日本滞在時に仕事で訪問した会社でマスクを「お願い」されたことは何度もありましたし、美容室では「マスクをしなければサービスを提供しない」と言われたこともあります。別の理髪店では、サービスは提供するがマスクしないのであれば外で待てと言われ、外で待ったこともあります。電車の中で見知らぬ乗客にマスクをするようにお願いされたこともあります。
日本では事業者が執拗にマスク着用を拘る余り、大きなトラブルになることもあります。航空機内でのトラブルの他、弁護士が妻の誕生日・結婚記念日に予約したホテルで、マスク非着用を理由にホテルから宿泊拒否されたなどという事例もありました。
日本はこのように実質強制の「お願い」、サービス提供や入所・入店の条件となっていること、その他の同調圧力によって、マスクが義務化されていないにもかかわらず高いマスク着用率を維持しています。これは、カナダ(おそらく他の欧米諸国も同様)に住んでいる私には異常に見えます。
考察:欧米と日本の違い
マスク着用に関しては、欧米と日本で次の違いがありました。
欧米諸国では、政府の規制によりマスク着用ルールが定められました。規制が解除されると大多数の人がマスクを外しました。規制解除後は、(少なくとも私がカナダで生活する範囲では)自主的にマスクの着用を強制させる施設や店などはありません。
一方、日本は最初から政府の規制はありません。しかし、事業者、施設運営者や学校などが厳しいマスク着用ルールを課し、実質強制しています。結果として、日本のマスク着用率はとても高く維持されています。
どうしてこのような違いが生じるのでしょうか。考察してみます。検証されていない私の仮説ですが、次の6つを上げたいと思います。
1. 義務化されていないものを強要してよいかの意識の差
自分の施設で感染者を出したくない・集団感染を起こしたくないと考えている事業者は日本にも欧米諸国にいると考えます。しかし、欧米は、一旦義務化解除されればマスク着用は個人の自由であり、義務化されていないマスクの着用を利用者や客に強要することはできないと考える人が多いと考えます。日本では実質強制の「お願い」という矛盾した手法を使っています。
2. メディアによる執拗な刷り込みの有無
日本の大手メディアは執拗に「国民全員がマスク着用をする」ことに向けてマインドコントロールを行っています。大手メディアの取材の対象となる人は、必ずマスクを着用するように依頼されたという複数の情報がありますし、街頭インタビューなどでテレビに出る人たちは必ずマスクをつけていて、「マスクは着用するもの」という意識を刷り込んでします。
私が見た限り、カナダではマスクについてはここまで執拗にメディアが刷り込みを行っていません。
3. 国民自身の気づきの有無
マスクの着用の有無が感染の拡大とは無関係であるという気付きを得ら機会があるかどうかも要因であると考えます。カナダBC州の場合、2022年3月に屋内のマスク義務が解除になっても感染の大きな波は来ないので、「マスクを外しても大丈夫だ」と気付いた人も多かったのかもしれません。
しかし、気付きを得る機会は他にもあると思います。全員にマスクをさせるということは、健康で無症状な人を含めて誰もが感染源になり得る(飛沫や吐息からウイルスが漏れる)、そして、マスクで感染を防止できるという前提だと考えます。しかし、この「全員がマスクをすれば感染防止できる」という前提の矛盾は、日常生活でも容易に見つかるでしょう。
新型コロナの主要感染経路は空気感染であることが分かっており(国立感染症研究所も認めている)、隙間だらけのマスクで飛沫を防ぐだけでは防止しきれない
家族内感染の可能性もあるが、家庭ではなぜかマスクを着用しない
屋内の居酒屋などでマスクを外して大声で話すことには特に制限がなく、毎晩全国各地でそれが繰り返されているのに集団感染は起こらない
政治家や要人はお互いに感染させることを避けるべき要人同士の会合でもマスクを着用しないし、政治集会などで密になっていることもある
矛盾は他にも多くありますが省略します。
残念ながら気付いてない日本人はまだ多いのでしょうか。それとも気が付いていてもそれ以上探究しなかったり行動に移さないのでしょうか。
4. 政府の過剰な対策をきっかけとした国民の気付きの有無
日本も欧米諸国も、2020年から政府と主要メディアが「コロナは怖い、これを防ぐには感染予防対策をするべき」というキャンペーンをしてきました。しかし、コロナは怖がるに値しないし、政府が呼びかける感染予防対策は無意味であると気付いた人が欧米では多いのではないでしょうか。これは国民が自身による観察から気付いた場合もあるでしょうが、政府が私権制限を伴う極端な対策をしたことで「何かおかしい」と気付いた国民も多いでしょう。
カナダでは、2021年秋から連邦政府が非接種者の飛行機・列車搭乗を禁じ、各州がワクチンパスポート(レストランやイベントへの立入禁止など)を実施し、非接種者の自由が制限されました。しかしこれは非科学的であり、政府が不当に国民の自由を制限しているという認識が広まり、2022年2月にトラックドライバーと市民が「トラック・コンボイ」という大規模抗議活動を起こしました。
政府は抗議活動に参加した市民をテロリスト扱いし、通常は戦争時に発動する「緊急事態法」を発動し、警察による暴力、車両の押収と破損、参加者の逮捕、寄附者の口座凍結まで行って事態を収拾させました。こういった経緯をよく知っている国民にとっては、政府が呼びかける感染対策など信用に値しないでしょう。
従って、罰金を伴う規制が解除されれば、マスクを着用する動機はなくなります。日本は、こういった極端な政策はないのものの、対策がジワジワと続いている感じです。
5. 日本では、ルールの意味よりも一度決めたルールを守ることが大事
しかし日本にも、健康で無症状の人がマスクをすることは意味がないと気付いた人が少なからずいると推測します。しかし、それがマスクを外すことにはなかなかつながりません。一般的に日本人はルールをきちんと守る傾向がありますが、ルールの意味を考えて対応することよりも、ルールを守ることそのものに固執してしまう傾向があると考えます。
その象徴的な出来事が、将棋の対局中にマスクを外し日本将棋連盟の臨時対局規定に違反となり反則負けとなった選手のニュースです。将棋の対局は話をしないので飛沫も飛ばないはずで、なぜそもそもこのような臨時対局規定を作ったのかが謎です。そして、「ルールだから」と、本当に反則負けの判定をするなど信じられません。誰も現実に即してルールを見直さなかったのでしょうか。
マスク着用をお願いされたら、私は大抵の場合その理由や根拠を聞くようにしています。「ルールだから」「上の方針だから」「感染防止のため」「お客様の安心のため」などという回答が返ってくることが多いです。しかし、さらに突き詰めてその根拠を聞いたり、その施設での運用の矛盾点の説明(例えば、理髪店で待ち時間はマスク着用だがサービス中は「マスクに髪の毛がひっかかるから」マスクしなくてよいなど)を求めると、論理的で説得力のある回答が返ってきたことは一度としてありません。
言われたことを疑問も持たずに実行するだけの人がいかに多いか、ということです。そしてその背後には、「多数派の人がしていることだから、こうしておけば安全だろう」という考えがあるに違いありません。
6. 自分がどう見られているかを過剰に気にするかの差
日本の美容室でマスク着用を求められ、その理由を聞いたときに、店主は、感染防止効果が本当にあるかは問題ではなく、マスクを着用していない客がいると、感染防止対策をしていない店だと思われて客が入らなくなるのは困る、と言っていました。
感染防止効果よりも自分たちがどう見られるかが問題ということです。そして、そのためには効果がないかもしれないマスクの着用を客に求めるということです。それでは一体いつマスク着用をやめるのかと聞いたら、「うちは後の方。大部分が外したらやめる」と言っていました。店舗でなくても、職場や街で同じような理由でマスクを着用している人は多いことでしょう。
社会の構成員全部がこのようなメンタリティーだと、社会が変わるきっかけがなく、意味があろうとなかろうとマスク社会は継続します。
一方、欧米諸国はここまで同調圧力が強くなく、他者と一緒であることを気にしないため、意味がないとわかればマスクを外せるのだと考えます。
おわりに
以上、規制が解除となったカナダの状況を基に、感染防止対策としてのマスク着用に関して欧米諸国と日本の違いについて考察しました。
私が懸念するのは、日本のマスク着用率が高いということは、疑問を感じない人が多いか、意味がないと分かっていても会社の方針や周りに同調する人が多いということです。社会がうまく回っているときにはこれでもよいですが、日本人のこの性質が国力の衰退と亡国の危機につながると心配せざるを得ません。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
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