自論:転生論と私の人生観

 この文はあくまで自論であり。
 己が転生論を信じる理由と、その先の人生観に関する話をする。

 私が今後noteに何かを書くとすれば、この自論とそれに基づく人生観が非常に大きな私の行動の根拠になると思うからである。

 一方で、それは非常に脆く拙い、1意見に過ぎないことは前提としている。また私も未熟な人間の1人であり、そのただの戯言に過ぎないことも、また理解している


・自論の根本:転生論

前提:無宗派

 私の持論の根本には転生論があり、一方で私は無宗派であることを補足しておくというのも、単に転生論を唱えたとしても、ただの宗教信者に過ぎないという風に思われるからである。

 私は無宗派ではあるが、正月には神社に行き神によろしくって言うし、クリスマスにはキリストの生誕を祈る。

 また何か大きなことがある際は、神に見守ってくださいって祈ることはあるが、特定の宗派に属すわけでもなく、カルトに関しては好かないポジションにある。

 結局のところ、人は己の中の信じる神を信じるのは良いが、最終的な出来事は人に寄るものでしかなく、そこに神は関りを持たないと思っている。

➡例:神は亡ぶ運命を変えることが出来るか

 例えば、神は亡ぶ運命を変えることは出来るだろうか?
 私はそうは思わないというのも、神が仮にいれば予言は出来るかもしれない、それは神によるものではなく、あくまで人かもしれないが、仮にそれをできてもその運命を、ゆがめることは神は出来ないと考える。

 それは神が物理に直接的な影響を与えることは難しいと考えるからである、結局のところ何かしら小さな出来事に神が起因するとすれば、その人の努力を根拠とするところに、神の力という目に見えない期待を込めることが出来て、結局のところ己の力でなしたことに、神の存在を仄めかしているというのが、私の結論であり。

 神は大きな力を持って何かを変えるものではないというのは私の意見であり、私が大層なことを語るカルトや特定宗教を信じない理由になる。

 カルトを信じても、それが良い未来に帰結するとは思わない。

・本題:転生論について

 転生論は己の考える理論の中で、今強く推しているものであり。
 且つ、人が努力し社会をよくするべき理由とも考えている。

 これは私の人生観の中でも重要なものである。
 尚、ここに至るまでには全て予測と対話がある。

 あくまでバカげた個人的な意見に過ぎないが、人が生きる上で考える目的であったりは、全てここにあると思っている。

1:死後に関する疑問

 私は死んだら何処に行くのだろう、そんなことは誰だって考えることで、それに時間をかける人も居れば、そんなことはどうでも良くひたすら必死に頑張る人も居るだろう。

 しかしながら、私にとって死後というのは重要な物であった

・死にゆく先の眺め

 この死後の先は『死にゆく先の眺め』について考えることが出来る。
 仮に天の国に行くのであれば、天の国からの眺めになるだろうし、地の底に行くのであれば、地の底からの眺めになると思われる。

 これらは全て、その先にどのような未来があるかを思うことに過ぎない。
 そしてこれらは恐怖と共に、エゴが付いていると思う。

 デスノートにおいて、恐らく夜神月が恐れたのは無の世界だろうし、無というのは非常に恐ろしい、それは全てが無くなることだから。

 だから人は生きる目的を死後に求め。
 死後の先を予測し、それを生きがいにする。

 生を持って、死後を馳せるというのは非常に悲しい話にも思える。

・死後の世界への関心

 私が死後に感心を寄せたのは、親が買い物から帰って来なかったら、どうしようという不安が死というものを身近にしたことが始まりだった。

 それは小学6年生の頃だったと思う。
 私は成績は良くなく、宿題もまともにしない問題児であった。

 しかしそんなことはここではどうでもいい、そんな問題児は常に空に絵を描くように、常に空想して考えていた、そんな中で訪れたのが死というものへの恐怖だった。

 私もこれを書いていて思い出したことだったが、当時存在も知らなかった、身内の葬式に参列し、確かに命を引き取った人という存在を見たのも、その恐怖を具体的にする要因だったと思う。

 そして私は死後どのようになるかについて関心を抱いた。

・ピラミッドの話

 私が最初に考えた仮説は、世界リセット説である。
 これは私にとって最も当時強いと思っていた節であり、人は死後同じ世界を同じように繰り返すだけというものだった。

 世界各国に謎が溢れ、それを解明しようとしていて、私の中ではピラミッドという未知をこの説の根拠になっていたが、今思うと根拠にもならないものではある。

 私の論理はこうだ、人は死ぬと同じ世界、同じ環境に再び生まれるというものだった、そしてビデオプレイヤーのように何度も何度も同じような人生を繰り返すことになる。

 その中での、選択肢がもしかしたら未来を変えるかもしれないが、その未来を死後私は見れないものであり、そして見れない未来は存在しないという風に考えたものと個人的には解釈できる。

 実際にこんな論調があるのかは分からないが、小学生の私にとって私の生きる今というものと、私が生きた未来というものは存在するが、その先の未来については考えることが出来ない為、辻褄を合わせるように、何度も繰りかえす今というのを死後の概念で考えた。

 そしてそれに気づいたのであれば、なんだって試してみればよい、どうせ死後同じ世界を繰り返すのだからという風にも考えていた。

 そしてそれを親に話して、何らかの形で否定されて、私もそれに同意したことで、この説は私の中で消えた。

 しかしながら、しっかりと私は覚えている。

余談:天国と地獄の否定

 ここからすぐに、私は転生論を唱えるべきであろうが、先に天国と地獄を否定するスタンスに関する話をする。

 私の中で、天国と地獄というものは人間のエゴによる存在と考えている。
 一方で私はプロパガンダとして、天国と地獄というものの存在を信じてはいる。

 そもそも論、天国と地獄の存在は人の心の不安の解消材料に過ぎない。
 どういうことか天国があるから良いことをしよう、地獄があるから悪いことはしてはいけないという、行動の動機として、天国と地獄は存在する。

 私的には竹〇平蔵が地獄に行けば、地獄にも派遣制度が導入されて、全ての従業員が派遣になるのだろうか?とか、地獄にも貨幣制度はあるのだろうか?と考えることはあるが。

 仮にそれを目的として人が生きているのであれば、いくら天国や地獄が広大であっても、キャパはオーバーするわけだし、人がそこでたむろするというオチは非常につまらないものである。

 人はそんなもののために生きているとは思わない。
 これはあくまで、都合よくゴールを見せているに違いないというのが、私の考えである。

 当然異論は認める。

2,転生論

・きっかけ

 私の中で、転生論は元々割とあったように思うが、当然、ここまで硬いものでは無かった。固くなったきっかけは中学時代にYoutubeで何かの動画を見た時に生まれた。

 その動画は前世の記憶を持つ人の話だった。
 非常にオカルトチックであるが、中学生なんてオカルトチックなものや都市伝説にハマるもので、私がハマらないはずが無かった。

 その動画ではまだ言葉を覚えた幼子の前世が、皇族であり、本来子供には分からないはずの事を話したり、そもそも公表されていないことを話したということだった。

 そしてその子供はある一定の年になると、前世の記憶に関しても、それを話したことさえも忘れてしまった。

 そんな一例もあるが、ある程度前世の記憶を持つものが生まれてくることはある、それは世界の様々な場所で起きることである。

 その事例は私の死後の概念をより強くするものだった。

・輪廻転生

 輪廻転生を私はこう解釈しているが、仮に間違いを疑うのであれば、調べてほしい。

 私の解釈としては人は死後、魂が浄化され再びこの地球という土地のどこかで産み落とされるという風に思っている。

 もっと根本的な話や概念は、その理念を強く信じ伝える人に託すが、あくまで私の自論で論理を展開してゆく、ここでの輪廻転生観念はあくまで私の考えのみに基づくものである。

・人は死後どうなるのだろうか

 人は死後どうなるか。
 私の考えはこうだ、まず人は記憶と魂を持って地上から離れる。

 その先の世界は無かもしれないが、ここでは私は天界という仮の場所を出す、そしてその場所には神がいて、神は何をするかと言うと、記憶を削除する。そしてそのストレージ付きの魂は、何処かの誰かが子を宿した際に優先的に地上に降りてゆくという考えである。

 私のイメージとしては、使わなくなったコンピューターを一旦リセットして、中古屋に流して、中古屋が再び販売して、誰かの手に渡り再び誰かの手の元で、活動をするというものと同じだと考えると、解像度が上がると思う。

 そしてその際に削除が出来ていないのが、記憶を持って生まれた子供であり、それも後に新たに上書きされて記憶から消える。

 そんな機械的な考え方が私の死後の考え方である。
 それを元に人生観を語ってゆく。

3,人生観

・人は何のために生きるのか

 私の中で、転生論とこの部分は重要に密接している。
 人は善い行いをする理由や、悪いことをしてはいけない理由を、その死後の世界に帰結することとして考るのではないかと私は思っている。

 それが天国と地獄という概念だ。

 しかし私はあくまで、生きる理由は来世の自分がより住みよい状態を目指すためと考えている。

 私たちは今が良ければよいで生きていればいい、これは特に私の批判している政治家や役人が思っていそうと感じているが、その考えで仮に環境が悪くなれば、いずれ来世の己が困ることになると信じている。

 たまたま奴らは身分を得たに過ぎない訳だし、たまたま今は良いポジションにいるが、仮に死後再び同じ日本に生まれれば。

 奴らが苦しい国を作れば、苦しい階層の子供として生まれる確率は上がると思っている。

 そしてそれは私たちが、良い国を作る理由にも繋がると感じている。
 人の最終的な目標は来世の己の為に今の状況を良くするということにあり、そのために人はそれぞれ生きているというのが私の壮大な目標にある。

・考えの実行と記録

 私がこれを書いたのも、あくまで記録に過ぎないが。
 何かしらを記録することは来世の己に影響する可能性があると思い、行っていることに過ぎない。

 そして需要はニッチながらも、それに関する情報を提供するサービスを細々としているが、その理由もそこにある。

 全ては人に影響を及ぼし良い効果を与えることが、来世の自分に何かしらの影響を与えることと考え、それを記録することも意味があるという論調を持っている。

・行動の大切さ

 そして人生は短いのだから、とにかく何かしら行動することには意味があると感じている。それが形になろうがならなかろうが、行動をして何かを残せるところに至れば、その時点で何かが生まれている。

 誰か1人に影響を及ぼす力があれば、そこの価値は大きいというのが、私の考えである。それ故に行動を大事にしている。

4,生きるということ

・生きる意味の模索

 よく生きる意味を考える人がいる。
 それは自分の命への価値の疑問と、漠然とした未来への不安がベースとなっていると私は思っている。

 しかし、その疑問は無駄ではなく己と向き合う機会であると考えている。

 私はその疑問に1つだけ論がある。

 生きる意味とは誰かに影響を及ぼすためである。
 これが私の考えで、生きている上で少なくとも人に影響を与え人の人生にきっかけを与えることは自覚してなかろうが起きていることだと思っている。

 関わりは信用乗数のように最終的にはでかくなって、大きな渦となる。
 その元には生きた誰かの関りが由来している。そんな誰かに関わり誰かを変えるきっかけになるのが、今生きている意味であり、確かな存在の証明だと思う。

 だから誰一人価値のない人などは当然いない。
 皆かけがえのない存在だと思っている。

・環境

 環境を変えることは難しいが、それが命を絶つ理由になるのであれば、何があっても環境を変える必要がある。

 今そこで死を選ぶのはもったいない。
 何故か、そこにはまだ見えない可能性とまだ見えない未来があるから、人は死ねば再び変えることのできない環境から始まることになる。

 仮に逃げることが出来る環境に居るのであれば、逃げることは良いと思う。それが転生を先延ばしにするから。

・死への恐怖

 私が持っているのは死への恐怖だ。
 死は何があっても変えることのできない出来事であり、生はそれを先延ばしにしている。

 しかし何れ来る。
 私が出来ることはそれまでに出来ることをして、今を少しでも良くし。

 自らが再び生まれたときに、生きやすい環境やシステムを構築することのみであると考えている。だからその考えを記録して、今を必死に生きている。

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