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ワンダーランドを作ろう(えいがさきネタバレあり)
かすみの活躍
ランジュの母は、競争社会の勝者であり、人々を成果主義の競争に駆り立てて勝者と敗者に選別する資本主義そのものである。加えて彼女は、不正が横行する現実世界をも体現する(もちろん不正は誤解だったため、仮想敵としての役割は一時的なものに留まる)。
そんな彼女が主催する大会は当然、勝つことが至上命題となる。
GPX開催中、ステージの不足により、追加のステージが準備される。本来それはランジュの母を含めた運営=権力者の手により建造され、一番になることが全てだという思想を注入されたステージになる予定だったものである。
しかし、その企てをかすみが転覆させる。
かすみにとっての同好会、あるいはワンダーランドとは如何なるものか。
それは特定の住所を持たないノマディック(遊動的)な場である。
以下は拙筆の寄稿文の抜粋である。
歩夢「スクールっていうくらいだから、部に入らないとだめなんだろうけど」(TVアニメ 一期二話)
アイラ「I'm not in a school club, but I'm starting school idol in London from today!」(OVA)
歩夢は当初、「スクールアイドル」という呼称から、学校や部への帰属が必須だと考えており、表象にとらわれている。しかしそののち、OVAでは、アイラは学校の公認を得ることができていないにもかかわらず、スクールアイドルとしての始動を宣言する。つまり、スクールでなくともスクールアイドルになれる。
また、次のような発言も見られる。
歩夢「侑ちゃんもスクールアイドルだもん!」(TVアニメ 二期十三話)
侑はアイドルではない、しかし侑もスクールアイドルであるという。つまり、アイドルでなくともスクールアイドルになれる。
このように、虹ヶ咲はスクールアイドルの定義を、「スクール」にも「アイドル」にも求めない。
(中略)スクールアイドルという中心から周辺化されてしまった存在を救い出すためには、スクールアイドルという表象、概念、同一性、中心を解体することによって、スクールアイドルが秘める生き生きとした力動を解き放ち、それを「スクール」でも「アイドル」でもない存在に届ける必要がある。虹ヶ咲がスクールアイドルを解体するのは、決してスクールアイドルを否定したいからではなく、むしろスクールアイドルの精神をどこまでも広げていこうとしているからである。
他に、1期2話では、かすみが生徒会に目をつけられているため学校の敷地外を活動拠点としていた事例などもある。
これらの事実から、虹ヶ咲において、同好会あるいはステージは、特定の場所に拘束されず、ユビキタスに展開可能な場であることは明らかだ。
本作では、追加ステージの作成にかすみが関与する。これに対し、ランジュの母の秘書的なキャラクターが「ご協力感謝いたします」と言っていた一方で、かすみ自身は「かすみんプロデュースのステージ」と言った。ここで表現がややすり替えられていることに注目したい。確かに、現実的には協力の域を出ないのかもしれない。しかしかすみがステージを作成するという行為に込められた意味は、単なる協力に留まらない何かがあるということだ。
結論を言おう。このステージはかすみの介入により「ワンダーランド」となったのだ。かすみの関与によって、当該ステージは、自分らしくいられる場所、一人だけど独りじゃない場所、「仲間」と「ライバル」が両立する場所に変身を遂げた。成果主義の価値観を植え込まれたステージをかすみの思想で塗り替えてしまった。
だからこそ、ぶつかり合うことを恐れていた歩夢は、競争社会の只中であってもやることは変わらないのだとして、ステージに立つことができたのだ。
社会の中に、ワンダーランドをこじ開けていくこと。それは部長であるかすみだからこそできることだ。かすみは沖縄にも「同好会」を作ってみせた。
そしてそれが、「どこにいても君は君」の本懐である。至る所に同好会を作り出すことで、どこにいても自分が自分らしくいられる。
アニガサキでは競争から距離を取った。序列化される社会から無縁な場所に王国を構えていた。しかし本作では、むしろ社会に飛び入り、社会の中に自分らしくいられる場所をこじ開ける初の試みに成功した。
同好会は、決まった形を持たないアメーバ状を呈しているがゆえに、変形、分裂、拡散することができる。
ヒエラルキー型の組織は、一つの中心に向かって周辺が従属するように階層化されており、分解すると機能不全に陥る。それぞれが独自の固定的な役割を持ち、組み合わさって協働することで特定の目的を果たす。組み合わせ方は予め決まっていて、偶発性は期待できない。一方で、アメーバ状の関係は、支配的な中心は存在せず、分裂可能であり、分裂するたびに増殖し、勢力を増していく。またいかなる組み合わせも可能であり、そこから多様な何かが生み出され続ける(アジャンスマン)。
「どこにいても君は君」であれるのは、同好会がアメーバの如く無限に増殖する特性を有しているからであり、それは同好会が、リーダーなどの特権的な存在をはじめとした流動性を失わせ組織を硬直化させる要素を何一つ設定しないからである。
不正について
加えて、本作において特に印象的だったのは、不正というエッセンスである。アニガサキの掉尾を飾る役目を負ったえいがさきにおいて、不正という全き悪を描くことはとても勇気のいることだと推察する。しかし綺麗なだけの映画に終始させなかった。不正という現実の汚らわしさをあえて挿入してきた(筆者は観ながらついパリオリンピックを思い出してしまった)。私たちが参加するレースは、いつもどこかしら公平さが欠けている。そんな中で走らなければいけない不条理さがありふれている。結果として不正はなく、誤解だったわけだが、誤解であったとしても後味が悪い。ではなぜ後味の悪さを残そうとしたのか。それは、不正というエッセンスによって、本作の舞台と視聴者の現実が地続きであるということを際立たせたかったからだろう。そしてそれにより、本作が、そんな過酷な世界で取るべき行動を示す手引書としての色彩を強める。
理念を空転させるだけでは社会は変わらない。理念には実践が必要である。本作はいわば実践編なのだ。
それを請けて、この映画を観た我々がすべきことは何か。それは紛れもなく、権力が支配するこの現実世界に、各人がワンダーランドを作り出していくことである。虹ヶ咲を観た我々一人一人が第二、第三の部長として、同好会を作っていくのだ。アメーバ状のエヴァンジェリストになるのだ。そうしていくつもの同好会が、垣根を越えて接合し、新たなセッションを生み出していく。世界が一つに繋がっていく。それが虹ヶ咲が望む世界の在り方に他ならない。
権力と成果主義が跋扈するこの地に、ワンダーランドを作ろう。
オマケ
・かすみは冒頭で「同好会としてではなくGPXに参加する」という旨の発言をしていたため、かすみが沖縄の地に作り出したそれは、厳密にはあの13人から成る同好会と区別して、「同好会'」とでも表現すべきものである。ただ、同好会と同好会'の理念は同一であることから、本稿では「同好会」という呼称で統一した。
・「あなたの頑張ったこと&頑張りたいこと報告会」。作品の趣旨を考えれば、「やりたいこと報告会」でも「ときめいたこと報告会」でもよかったはずだ。しかしながらこの企画名には、「頑張る」という、強迫的で自己否定的なワードが全面に出ている。虹ヶ咲は、頑張ることではなく、自ずと走り出してしまったり、思わずときめいてしまったり、そういった受動性を端緒とする活動を目指していたのではなかったか。あるいは「頑張る」のだとしても、意識的に頑張ろうとするのではなく、頑張らずにはいられない鮮烈な衝動を描いていたのではなかったか。ではなぜ「頑張る」という表現を選んだのか。その表現でなければならなかったのか。それは、現実がトキメキだけでは乗り越えられない過酷さに満ちていることに我々の意識を向けさせるためとしか思えない。僕はこの企画を目にしたとき、「あなた」たちが熾烈な競争に身を投じる覚悟を示すための機会にしか見えなかった。同時に、虹ヶ咲が新たなフェーズへ移行している最中であることを感じ取った。そして予想通り、これはえいがさきの予兆だった。これから虹ヶ咲が現実世界に突入していく前触れに他ならなかった。
・三線には天というパーツがある。天は弦の上端を留めている。弦の下端にあるパーツは糸掛けという。よって弦=糸。天が小糸を支え、小糸は天に支えられる。二人が揃ってはじめて音を奏でられる
・エマがMV冒頭で牛車に乗っていたが、エマはホテルでも牛柄のパジャマを着ていた。エマと牛の関係について考察する必要があるだろう
・はんぺんには人と人を繋ぐ役割があるが、今回の映画は沖縄なのではんぺんはいない。その代わりコイトーとテーンが関係を修復するシーンで三毛猫が、ランジュとランジュの母のシーンでは黒猫がそれぞれ出てきた
・やはりランジュには水だった。ライブ会場はヒルトンのプールだったし、MVにも水が多く出てきた。ランジュと水の関係は拙著のこちらをご参照→https://note.com/hu_lovelive/n/n32e141a8c35f
・歩夢のMV、空のタイムラプスや砂時計、進化の図など、時間の経過を感じさせる要素が豊富だった