「花咲かじいさん」と「聖書」:文化が伝える共通の教訓
その国の昔話というのは、皆が子供の頃に一度は聞くものであるからして、記憶の彼方に残っていることが多いと思われます。
たとえば「花咲かじいさん」では、欲を掻いて自分のことしか考えない人は痛い目を見て、誠実で誰かのためになる行いは、最終的には報いられる、というものです。
この共通の記憶があれば、「自己利益の追求」といったことに対して、やりすぎたらいけない、という意見には一定の共感を得ることができたりするだろうと思ういます。
この「誰でも一度は聞いたことがある」というのと同じ構造を考えると、西洋(キリスト教文化圏)では『聖書』にあたるのだろうか。
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その聖書のなかで、イエスは、パリサイ人という宗教的一派の人たちを何度も批判します。
何を批判したかというと、パリサイ人はユダヤ教の「法」に従っていさえすれば「自分たちは正しい」という生き方をしていて、その結果、その人達の中身は硬直的で、「よりよく生きる」という考えなど微塵もなくなっていた。
このことをイエスは、
ただ「主」は、「よりよく生きる」ために教えを説いているのであり、法に従って生きることを説いているわけではない、ということを根底として批判したのである。
もしこの「イエスの批判」が、幼少の頃からの「聖書」の話として、その文化圏の人たちに共感を得やすい「共通の価値観」となっているとすると。。。
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たとえば現代の仕事の現場でよく見かけるような、「これが会社のルールです」とか「ルールにしたがって判断したのに何が悪いのか?」とかいって、
良心が麻痺して、ただのルーチンとして判断しかせず、現場の生産性を停滞させる人に対して、「それってパリサイ人的だよね?」と指摘すると、「あ、そっか」ということで、共通の理解を形成されやすいのではないかと思われます。(←これは本当にただの想像です。現代の西洋の教育現場の裏取りはしていません)
しかしこのような共通の価値観がないと、「なぜルールにしたがった自分の判断が問題なのですか?」ということに対して、理屈で説明しても、なかなか相手は腹落ちすることはないのではないでしょうか。
かのように、「その文化の根底にある価値観の有無」というものは、個々人の底流にあって、そうしたことから、組織文化や、指導のあり方は、難しさを伴います。
そして突き詰めて考えれば、相互理解は不可能という結論に達せざるを得ないことでしょう。
故に、その会社の人事採用というものは、非常に重要で、組織のなかでまったく共鳴しない価値観の人を採用してはいけないのです。
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ところで、日本には「聖書」にあたるようなものは「古事記」かもしれませんが、汎神論的な日本においては、すべてが等価値に見ようとする文化的風土もあり、「共通の教訓」を引き出しづらい。
日本文化にはそういうところがある、ということを西洋との比較の上、相対化させて把握しておく必要はあると思います。