高速道路から降りて自分の速度で
どんどん高速化し、自分の速度で走れない世界
福岡は天神から出雲大社へ
高速道路や有料道路をハシゴしながらたどり着く。
その途中で思ったのは
高速道路は、その流れを邪魔しないために、スピードは落とせない。
(一般道もそうではあるのですが、さらに)
実際は最低速度と最高速が決まっている。
(アウトバーンは最高速が制限されてない)
なんだか今の社会は、どんどんスピードアップが進んでいくうちに、
なぜスピードアップなのかも忘れて、加速が価値になっている気がする。
加速が価値ということ自体は悪いわけではないかもだが、
よくないのは、自分の速度を選べないこと。
これはただのラットレース
そう、加速が悪いのではなく、加速から逃れられないのが問題なのだ。
加速について
(脳はスピードアップできるけれど、体はできない。そのギャップに体は苦しむ。
一方、技術は加速度的に加速していて、人間を全部デジタル化しようとする(シンギュラリティ@USA、ムーンショット計画@内閣府)。
しかし、身体はデジタルになりきれないので、そうなればそれは人間ではない。トランスヒューマン。ただしその精神は魂なく劣化する。
結局、ある程度を超えると、加速は価値にはならない。そこは見極めが必要。実際は偽の価値で投資マネーが価値を偽装するだけ。)
cf. 「2030年:すべてが「加速」する世界に備えよ」
cf.「スローライフが、むしろ資本主義を「加速」させるという皮肉な現実」
自分の速度であるために
自分の速度で走れることが大事だ。
高速も低速も選べることが大事だ。
スローの方が豊かだったりもする(スローライフ、スローセックス…)。
道路は一つだから、速度をあわせないと迷惑になってしまう。
だけれど、生き方において(仕事はともかくの部分がまだあるかもなので移行期間は必要。とはいえ、意志が必要だ。)、速度を選べる社会がいいんじゃないでしょうか?
まずは、車を止めて、このレースを降りること。
または、これではないレースを始めること。
または、
実は想像力(デジタル含む)は、同時に複数の道が持てたりもする。
自分の速度であるための想像力(デジタル含む)を選ぼう。誰かのためでなく。
そのためにも、ローカルがオススメだ(^ ^)
スローライフ*想像力(デジタル含む)*ダイバーシティ。
奪い合い から わかちあい へ
太陽からは無尽蔵といっていいほどの恩寵が降り注いでいて、
わたしたちは愛されている。
僕らはそこでもっともっと遊び、祝福し、感謝し、愛し、表現して暮らしていいのだ。
そしてそれらはみんなでやったほうがたのしかったりもする。
奪い合い から わかちあい へ。