見出し画像

「私」への執着に気づき、健全な理性を育む

私たちが生きていて苦しみを感じる理由はいろいろあるのですが、その筆頭に挙げられるのが「私」への執着といえるのではないでしょうか。

「私は○○」の○○に入ってくる様々なアイデンティティを示す言葉や、「私の△△」の△△に入ってくる自身の所有物など、自分にとって無くなっては困る!侵害されるなどもっての外!と感じているものが脅威にさらされる不安。

その不安が私たちのネガティブな思考を生み出し、その脅威を避けようとする行動がさらなる負のループを生み出す。
不安があれこれ囁く妄想は妄想に過ぎないのに、あまりにリアルに感じられてしまうために思わずその声に従ってしまう。
でも、そんな声に流された先にあるのは不安の解消などではなく、さらなる不安…この摩訶不思議なカラクリ。

このカラクリの外に出るにはどうしたらいいのでしょう?

実は先日、生まれて初めて本格的な外科手術を受けました。半年以上の服薬治療から入院と手術の段取りなど、まあ初めての経験の連続。世の中にはほんとうに知らないことがたくさんあるんだなぁと改めて実感する日々でした。

お世話になったのはとても大きな病院。入れ替わり立ち替わり、様々な担当者が説明や診察をしてくださいます。皆様ご自身の職務に真っ直ぐで、プロフェッショナルとしての澄んだ波動がとても気持ち良い環境でした。

手術は4時間に及んだようですが、私自身は全身麻酔のため完全熟睡。スーッと眠くなったな…と思った次の瞬間には、「終わりましたよ!」という掛け声を受け、ベッドごと病室に運ばれていましたね。

そこから半日くらいはいろいろなチューブに繋がれていたりでちょっと大変でしたが、それらが一つずつ外れていくたび、急速に日常に戻って行くのを感じました。

手術前後に私を看てくださっていた医師や看護師さんたちは、私のあまりの落ち着きっぷりにだいぶ驚かれていました。何度か手術経験があるんですか、などと質問されたり。
私の方は内心、そんな私に面食らっている皆様の様子を見ながら「えへへ💖」とほくそ笑んでいましたけれど。

良く分かります。
以前の私だったら、どんなに不安を抱えていただろうって想像していました。自分の身体にメスを入れることの不安、その後自分の身体がどうにかなってしまうのではという不安、本当に元の通りに戻れるのか、入院期間はどのくらいになるのか、お金は大丈夫か、エトセトラ、エトセトラ…。
不安要素なんて、いくらでもかき集められたでしょう。
それが普通の状態なんだろうと想像できます。

でも、そんなこと無意味。ただの妄想なので。
それを心底知っているから、もう本当にブレないんだなぁと実感します。

自分のスピリットが絶対に大丈夫といっているのであれば、その安心感に任せていればよい。問題らしきことが目の前に来たら、その問題だけを正面から見て、有効な対処をする。
シンプルに、それだけでいい。

以前なら、あらかじめ色々なリスクを想定して、対処法をおさらいして…とやりたがっていたはずです。お見舞いに来てくれた父がまさにそんなタイプなのを目の当たりにして、これまた笑ってしまいました。
ほとんどの問題はどうせ思いもよらないところから発生する。そんなことを心配することにエネルギーを使うより、回復の方にエネルギー全振りする方が理にかなっていますよね。

この身体!この私の身体!!
絶対に微塵も不利益など被りたくない!!
なにかあったらどうしよう…
私のモノが…私の大切なモノが…!!!

自分の身体へのそんな執着があればあるほど、さらされている脅威がものすごいモンスターに見えてしまい、恐怖がさらに妄想を肥大化させてしまうもの。
不安が不幸を、苦しみを連れてくる。

今回私に起こった問題と言えば、そうですね…傷口を塞いでいたテープによって皮膚がかぶれてしまったことくらいですかね。医師がステロイドを処方してくれました。チャンチャン♪

私は自分の身体のことを、借り物だと感じています。
この世で様々なことにチャレンジし、経験を積むために与えてもらった、借り物。
自分の完全な所有物ではないけれど、そんなチャレンジや経験のために適切なメンテナンスを責任もって果たすべき対象。
だから、執着は不要だけれど大切にしようと思うもの。
それで十分。

ただし、です。
スピリットが大丈夫と言っているかどうかは、スピリットにきちんとアクセスしなければ聴き取れません。
執着による不安の声と、スピリットが「そっちじゃないよ!」と制止する声を聴き分けるには、だいぶ感覚をクリアにしなければ難しいのかもしれません。

それと。
身体はとても大切なものです。
私たちが、この世でやりたいと思ったことを果たすために与えられた、とても大切なもの。
だからそもそも、誰一人として、それを侵害することは許されないのです。

COCOROカレッジでは、暴力は100%加害者が悪い、というルールが適用されています。
一切の例外はない、というMomoyoさんの宣言には震えました。

そう、暴力の誘惑を抑えるために、私たちには理性というものがきちんと備わっているのです。

執着で自らを守るのではない。
健全な理性を育むことによって、自らを含めて皆が守られる。

これを学ぶことも、私たちのこの世での学習プログラムの一環なのだろうなと感じています。

≪巻頭写真:Photo by Yoann Boyer on Unsplash

いいなと思ったら応援しよう!

Keiko Usami
長年の公私に渡る不調和を正面から受け入れ、それを越える決意をし、様々な探究を実践。縁を得て、不調和の原因となる人間のマインドを紐解き解放していく内観法を会得。人がどこで躓くのか、何を勘違いしてしまうのかを共に見出すとともに、叡智に満ちた重要なメッセージを共有する活動をしています。