『ニュー・アース』省察⑫ ‐ 幸福の秘訣とは
第四章 エゴはさまざまな顔でいつの間にか私たちのそばにいる (最終回)
エゴの形式やバリエーションについて詳述した、第四章のラスト部分です。
本書ではちょっと話題が前後する箇所があるので、少し整理して組み替えてみました。
この部分では、広い意味ではどんな形でもエゴはそれ自体が病的、という指摘が何度もなされています。
どんな点が病的と言えるのか、まずはいくつかポイントを挙げています。
苦しみを苦しみと認めず、どんな状況でもそれが唯一適切な対応と考える。
地球の環境汚染のように、ネガティブな状態をネガティブと感じることができず、むしろ正当化したり、自ら引き起こしておきながら何らかの外部要因のせいにする。
ただの“状況”と、それに対する自分の“解釈/反応”を区別できない。…例えば、天気が悪いことと、天気のせいにして-言い換えると天気の“状況”に抵抗して-ひどい気分になっている自分の解釈/反応を同一視してしまう。
エゴによるネガティブな状態が、本人にある種の喜びや目的達成に向かっているという感覚を生じさせる。…平たく言うと、例えば仲間内で「あれは間違っている!」という話題になり、それがどんな風にどのくらい間違っているかをあれこれあげつらっているとき、本人たちはどんどん「正しさ」に近付いているような錯覚に陥り、気持ち良く盛り上がっていく。本当はエゴがどんどん強大化して、苦しみを生み出しているだけなのに。
ネガティブな状態は常にエゴが発動した結果であり、それによって自分で自分の苦しみを創り出していると気づくこと…それが本来の知的な反応であり、その気づきによってのみ、エゴによる限界を越えることが出来る、ということです。
ちなみにですが、人間の病気そのものは、場合によってエゴを強くも弱くもします。
患者が「病気を持った自分」というアイデンティティに自分を同一化していけば、当然エゴは強まります。
一方で、病気の時は人間のエネルギーレベルが低下するので、身体はそれに正しく反応し残りのエネルギーを身体を癒すために差し向けます。
したがってエゴ用のエネルギーが不足すれば、通常エゴは弱まることになります。
ただし、そんな状態でもエゴにエネルギーを差し向ければ…当然病気の治りが遅くなったり、回復できずに慢性化することにも繋がってしまいます。
またここでは、エゴの病的な形として、“妄想症”というべき側面についても言及しています。
普通の人でも、ちょっと自分を大きく見せたいために、時折嘘をついたり話を盛ったりすることはありますよね。
ところが、なかには常習的/強迫的に、より大きな嘘、完全に幻想からなる物語を語る人が存在します。
自分が不十分だから、もっと大きく見せなければというエゴの不安に駆り立てられた結果ではありますが、一時的には人々をだませてもたいていは長続きせず、たちまち虚構だとばれてしまいます。
もうひとつの妄想症の例として、自分が迫害されている、監視されているといった思いが強くなればなるほど、そんな自分が特別な重要人物であるかのように感じるという症状について述べられています。
この場合、本人は被害者でありながら、そんな状況を打ち負かす、悪を破り世界を救う可能性のある英雄でもあるという妄想に取り憑かれています。
これが集団化し、部族や国家、宗教組織がその妄想に取り憑かれると、個人レベルでは考えられない程の物理的暴力に繋がるというケースは歴史上、枚挙にいとまがないのですが、集団によるエゴについては後段でもう一度フォーカスします。
さて…
そこまで強いネガティブ状態ではないですが、ちょっとした苛立ちや、なんとなく恨みがましい気持ち、「うんざりだな…」と思う場面など、軽めなネガティブ状態なら多くの人の日常にあふれているとは思いませんか。
これらが実は“そこはかとない不幸”を生み出している、と筆者は指摘します。
多くの人が人生の大半をこういう状態で過ごしているのに、無意識であるがゆえにそう簡単にはそのネガティブさに気づけません。
例えば、こんな形の文言が日常的に自分の中に生息していることに、気づけるでしょうか。
私が幸せになるには、○○が起こる必要があるが、それが起こらないのが不満だ。願っていれば、そのうちそれが起こるかもしれない。
過去に起こった○○という出来事のせいで、自分は今、安らかではいられない。あれさえ起こらなければ…。
今、起こってはならないことが起こっている。そのせいで私は安らかではいられない。
△△は自分のためにこれをするべきだ。ずっと恨み続けていれば(思い続けていれば)、いつかそれは実現するかもしれない。
△△がするべきことをしないので、自分は安らかではいられない。
これらの例はすべて、「どうして私は今安らかな気持ちになれないのか」という問いに対してエゴが創り出した物語、ということです。
これらを克服し、いますぐ安らぎを得るには?
生命というゲームが展開している『いまという瞬間』と仲直りをすること…それが幸福の秘訣だと筆者は説きます。
そして、仕事とエゴとの関係についても、本章の中でまとめられています。
突出して優れた仕事をしている人たちは、仕事をしている最中は完全に「いまに在る」、つまりエゴから解放された状態で仕事が出来ているもの。
だからその仕事は秀でる。
ただし多くの場合、その解放は仕事のとき限定で、私生活では無意識な状態に戻ってしまう、とも指摘しています。
一方で、技術的には優秀でも、いつもエゴに仕事を邪魔されるような人も大勢います。
関心の一部だけが仕事に向かっていて、残りは自分自身への評価の心配や利益、権力などに向けられている人々。
こういう人たちは状況が不利になると、その状況と対立し、無駄なエネルギーを費やします。
そして、妬みや嫉妬から他人を助けなかったり足を引っ張ろうとすることも、結果的に自分の仕事を滞らせることに繋がります。
全体から自分を切り離してしまったあなたを、宇宙は助けてくれない。
成功を引き寄せたければ誰の成功であっても歓迎すべきなのです。
つまり、多くの人にとって最大の敵は、エゴによって状況や他人と対立してしまう自分自身、ということになります。
集団的なエゴには個人とはまた違った注意が必要となります。
例えば、エゴを抱えていた個人が、報酬も名誉も求めず、集団の大きな目的のために生涯を捧げるようになると、その姿は個人的なエゴを超越したかのように見えるかもしれません。
ですが、ほんとうにエゴから解放されたのか?
その集団に自分を同一化し、より強く大きくなったつもりになっていないかどうか…?
集団的エゴでも個人の場合と同様、自分たちの正しさを求めるため、敵が必要となります。
無意識に紛争を求め、敵との間に境界線を張り、自分たちのアイデンティティを確認せずには居られない…それは集団による激しい狂気。
集団的なエゴは普通、個人よりも無意識度が高くなる結果、一人ではやらないような残虐行為も平気でやってのけてしまう。
禅では、「真理を求めるな。ただ思念を捨てよ。」と言うそうです。
そのくらい、”正しさ”の取り扱いには注意を要するという事ですね。
それでは、集団化は必ず避けるべきかというと…?
人が新しい意識に目覚めると、その啓かれた意識を反映する集団をつくりたいと感じる場合もある、と筆者。
集団的エゴとは無縁の啓かれた集団 ‐ 企業でも慈善団体でも学校でも地域コミュニティでも、そのような集団は新しい地を生み出す新しい意識を芽生えさせるために重要な役割を果たすだろう、と、むしろ歓迎をしています。
要は、その集団を通してアイデンティティを確認したり強化したりしようとしていないか。
そこだけが鍵です。
これで、ようやく第四章を終わります。