お金が上下関係を作る理由
抽象的なものに酔う幻想とは?
お金は上下関係を作る。
と、本に書かれていた。抽象度の高さ=自由度。この自由度を欲とつなげて具体的なものを都合よく扱う。お金だけじゃなく思想や技術、哲学もそのようだ。
「〇〇(抽象度が高いこと)しているからいい」という表現に注意。金持ちだから、意識が高いから、、抽象に線を引いて苦しむ原因。
抽象は具体を包括してるとはいえ、それの扱い方が具体のような使い方なら抽象の意味がない。脳は都合の良いところ(痛み→快楽)を取り、生存、安定、承認、連帯、貢献などの欲求と繋げる。抽象とつなげるなら、まだ具体とそれらの欲をつなげてる方が「人として」都合がいいことがある。
パン食べたいなら食べれば良いし、スタイル良くなりたい承認欲求のために頑張るならまだいい。笑いのネタにもなるし、成長したいなどにもなったり。だが、それをすることで抽象度の高い自分になれない、認められないとなってくると、いよいよカルトのような存在のさせ方を自分と周りにするようになる。ただ、武士道やその他の抽象と具体が一体となっているようなものは、抽象と具体がつながっているため例外だと思う。抽象と距離があり、それを具体で実現できないことなどに一喜一憂することを指す。
それが単に自分の承認欲求だったとしても、神や悟りなど抽象の高いものと具体を繋げて線のない抽象に線を引いて、都合よく扱うのは、抽象が高いものもその人の認識画面の中ではエゴを満たすものになり、抽象度が下がる。それを伝える時もエゴを満たす行動のため、抽象度が高いものが具体が強く伝わる
なので、抽象度の高いものをどう扱うか、どう存在させるかが大事だ。2400年続く日本の古来には、常に抽象と具体を繋げて人々の生き方につなげていた。「続く」には、エントロピーや慣性、感覚など不可逆なものも取り入れるため、バランスが重要で、これだけ長くバランスをとり続けられることとは、、
抽象度が高いことを言う人はいくらでもいるが、それを浸透、継続、繋ぐといった最初から最後まで影響を「きれいなかたちで」続けられるものが、抽象の扱い方のプロではないだろうか。抽象が凄いのは誰でも分かるが、扱い方が偉大かを観れる目がある人はどれくらいだろうか。
目的と手段の「はきちがい」
これもよくありそうだ。
目的のためにやっていた手段が、手段のための手段になっていた、目的は忘れてそれをやることが目的になっていた。などだ。
抽象のために具体をやる人はいるだろうか?
どこまでを抽象とするかだが、自分は宇宙の1つぐらい抽象度が高いものなら、もう抽象のために具体をすることはあるだろうか?
抽象は活かすだけではないか。なぜなら線が引けないからだ。抽象に線を引くと具体になる。具体になると抽象ではなくなる。それは宗教にも言える。同じ神を信仰してても流派(線の引き方)が違う。
良い悪いではなく、そういう線引きがされているということ。だけど、脳は線に意味価値をつける。ということは、痛みを避けて快楽を得るという人間の行動原理によりその線が良い悪いで見えるようになることもある。
このように、このために(目的)これをやる(手段)だったのが、手段(目的遂行のために意味価値をつけて痛みと快楽を感じる)という思考や行動に生じる感情にエゴが反応することに意識がいきすぎて、目的を見失うこともある。
これも、具体と抽象の影響することでもあるだろう。
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