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明日への希望がない僕が、健康にだけ気を遣う理由。
こんにちは、現在22歳フリーターの竜です。
題名にある「明日への希望がない」現状について、語らせてください。
一部の人には生まれた瞬間に得られる、「ギフト」が存在していると私は考えます。
(ギフトとはRPGゲームなどの、チートスキルだと想像してください)
そして残酷にも大抵の人には「ギフト」が与えられていないとも感じています。
では具体的なギフトとは何なのか?
一番わかりやすいのが、イケメンか可愛いのか?という部分に想起します。
ギフトを得た可愛い人は、努力を努力と感じない程度の範囲で可愛さを保つことができますが、
ギフトを得られなかった、可愛くない人は可愛くなるためには相当な努力をしなければなりません、具体的にはメイクをしたり、モデルのようなスタイルになろうとしたり。
これらの努力は素晴らしいと思いますが、ギフトを得た人からすれば可愛いを保つためになぜ、無駄に努力をしているのだろう?という話です。
ギフトを得た可愛い人は、他のことに努力をする時間を作れるので、可愛くない人が時間を使い可愛くなったところで、結局は追いつけないのが現実です。
またブス男というのは、イケメンが普通に彼女が出来るのとは違い、大抵は金がなければ女を抱くことができません。
今現在話したことは、話をわかりやすくするために過剰にしてはいますが、現実は残酷です。
ギフトを得られなかった人間は、何か一つのことに打ち込めば成功するのではないのか?と考えがちです。
ぶっちゃけそれは、ニュートンが数学だけ点数が良かったから成功し、
普通の人は、普通の点数で何か一つでも秀でたことを探すことすらできない。
これで話がついてしまうと考えます。
簡単にまとめると、能力のある人間と能力のない人間がいるという事実。
その事実を埋めるには、努力論者になるしかない。
だが努力をしたところで大抵はギフトを得た人間にはかなわない。
このような話をするのだから、私はギフトを得ていない人間な訳です。
そしてギフトを得られなかった私が、考えた選択が「健康」だけは維持するという方法です。
健康を維持することは大抵のギフトを持たない人間でも、容易に出来ることであり、唯一ギフト持ちに抗えるすべだと感じています。
逆にギフトを持たない人間が、健康すら満足に維持できなければ永遠と努力論者として走り続けなければならないと感じています。
村人(ギフトなし)が勇者(ギフトもち)に肩を並べるには、
1.悪魔と契約をする(常識の外側・リスクをとる)
2.運を掴み取る(一定の努力をすることで、運の確率を上げる)
この2つが現実的だと思います。
簡単に言えば、不正行為をするか・一定の努力をして運を掴み取るかということで、
健康を維持していれば、一定の努力をする僅かながらのエネルギーを受諾できます。
その少ない努力で、奇跡的な運が廻って来たところを掴み取れるのか?
それが村人が勇者に肩を並べる方法だと思います。
ですが残念なことに、そもそも最初から村人と勇者では差がありすぎて、もう勇者になることを諦めて、村人の幸せを得るしかないと思うんですよね、だからせめて健康を維持して他人に迷惑をかけないような生き方をした方がいいと思うんですよ。
現実的にギフトを持たない人間がいることで、ギフト持ちが輝いて見えるので、ギフトを持たないに人間は、せめてそこそこの健康を維持して健全な精神で、過ごすべきだと思うんです。
昨今、ギフト持ちが努力をすれば成功すると謳う時代です。
ですが、ギフトを持たない人間は努力すら大抵が無駄だという現実にもがき苦しみ、生きていかなければならいのです。