溢れているからこそ、見失う。
例えばだ、1000の中から一つだけ選べと言われたら、選ぶのに時間がかかるだろう。
逆に10の中から一つだけなら?
確かに豊かな国はその膨大な数の選択肢から、自分に合う何かを選べるという自由がある。
だが私はその膨大な数の選択肢は本当の幸せを見つけ出すには、どうにも数が多すぎると思ってしまう。
だから人は間違えないように、人と同じ行動を安全だと思い選ぶのだろう、そっちの方が、膨大な数の何かを探すよりよっぽど合理的に思えるからだ。
でも私は人と同じように生きるぐらいなら、死んだ方がマシだと考えてしまう。
そこで膨大な選択肢ってやつを極端に切り捨てて、自分の信念にしたがってその少ない選択肢を歩もうと思う。
まだわからないが、人生は本当に短いらしい。
だから人に合わせることは理にかなっていると思う。
だが人生の意義を見つけるためには、思考停止して人に合わせて生きていては、短い人生の最後に「今まで何で生きてきたんだろう?」多分このように自問してしまう自分がいるだろう。
ならば周りが欲するものを全て捨てて、自分が欲する数少ない何かを見つける旅に出たいと思う。
人生の幸せは人それぞれにあることはわかる。
だがその言葉があまりにも、意味のない言葉に聞こえてならない。
今の周りの人たちを見ると、SNSに仮初の幸せを載せて気持ちの悪い笑みを浮かべた資本主義の道化にしか見えないのだ。
確かにこのような文章を書いてるような人間は、間違いなく今不幸せなのだろう。だが不幸せで何が悪いというのだ。
私は私の信念に忠実に生きようと思う。
例えその結果、周りの人が受諾する幸せに出会えなくともだ。
人生の最後に「もうやり残したことはない」そういって死にたいからだ。
私の死体の周りには、人が少ないだろう、それでも構わない。
人生に命を賭けていないんだ。
だから、とかくただの傍観者になってしまう。by岡本太郎