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訪れる死のために身綺麗に生きる

幼い頃から健康そのもので、風邪をひくのは年に1回かないかで入院なんてしたこともない
(死なない程度に諸々困っているのはこの際おいておくとして)。

でも、何のきっかけがあったわけでもないのにも関わらず、物心ついたときから、

人はいつか必ず死ぬし、それが明日ともしれない

という考えが常に私の根幹を泳いでいた。

だから、モノをたくさん所有すること(=日本的な豊かさ)に対する憧れはまったくない。

むしろ自分が死んだあとに様々な物品を他人が処分することのほうが嫌だ。

あら、こんなものが、あら、こんなものも、、、、
なんて最低最悪である。

できれば自分が把握できる必要最低限の身につけるものと、生活必需品だけで生きていきたい。

そんなことを小学一年生あたりから思っていたから、親からもらう年二回のプレゼントを選ばなければならない日が苦痛で仕方なかった。
クリスマスと誕生日である。

プレゼント選び嫌いは、幼い頃に気に入っていた積み木や誕生日プレゼント、たしかピーズでプレスレッドを作れるおもちゃ、絵本を無断で処分されたことに起因しているかもしれないが…

それはこの際脇においておくとして。

一つ増えたら一つ捨てないと増えていくばかりなのに、ただ年二回の特別な日のために断腸の思いで大切なものを捨てなければならないのか。
なんて可愛くないことを考えていた。

だから、クリスマスはいらないやとか、今回の誕生日プレゼントいらないから、来年立派なの買ってとか、どうにかものが増えるのを阻止していた。

今はもう大人になって、プレゼント選びはなくなり、心の安寧を得た。

それくらいの気持ちで生きてきたから、

他の人がなんの疑問もなくお金をモノに変えて喜びを感じるのか

部屋を管理できなくなるほどのモノを集められるのか

自分が死んだあとに他人がモノで溢れた部屋を整理することを想像できないのか

が、さっぱりわからない。
一生わかる気がしない。

(きっとみんな不死身で無敵で永遠に生きると思って生きている

とさえ思う。

や、単純に、死を考えるのは老人のすることで私達は関係ないなんて思ってるだけか、なんにも人生計画していないか、それとも私の想像つかない理由があるかのどれかだ。
それはわかってる。
さすがに不死身なんて思ってるわけないよね?)

わたしは自分が死んだあと、他の人に汚ねぇ人生だったんだなと思われなくないから
旅行前はもちろん、出勤前も必ず部屋の片付けをしてから出かける。
交通事故に合うかもしれないし、何か事件に巻き込まれるかもしれない。

いつか死ぬために生きるって楽しくない、と思われるかもしれないけど、そんなことない。
死にたがりなわけでもない。

死んでしまうときは選べないよねというだけで。

生きられるなら生きる。

災害のときの1次持ち出し袋を用意するような、そんな簡単な気持ちの持ちようなだけ。
わたしはちゃんと非常持ち出し袋を用意する派の人間である。


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