魚籃坂復仇探偵社:殺意のソーシャルディスタンス(前編)
仇討ち(あだうち):親族や関係者が殺された場合に私刑に処すことが認められている制度。仇持ちは目的を果たすまで故郷の土地を踏めず仇討ちを果たせずに死んだ場合は地獄を永劫に彷徨うとまで云われている。仇討実行には自治体への届け出が必要。なお、旧来の尊属(父母や兄等)が殺害された場合のみに仇討が発生される制度は時代にそぐわないとして撤廃され、卑属(妻子や弟等)が殺害された場合にも仇討申請が可能となっている。
(本作は第3回逆噴射小説大賞応募作『魚籃坂復仇探偵社:テレワーク殺人事件』を改題し前後編で完全版として執筆したものです)
2020年4月某日、東京都港区、深夜。
定宿のAPAホテルから仇討縁起で有名な泉岳寺へ向かうとガツンゴツンという先客の物音が聞こえてきた。角を曲がるとマスク姿の老人が墓石を削っている。キティちゃん柄の「仇討祈願」守り袋に削り取ったひと握りを収めると老人が振り返った。
「どうも」
「ほう、あなたもですか?」
「はい、十年ほど」
私はパンツスーツの下に隠した苦無ホルスターを見せる。
「ワシは三十年間で……やっとです」
老人も使い込まれた匕首をチラリと見せ、はにかむように笑う。
「御武運を」
「御武運を」
仇持ち同士の挨拶を交わし、彼の背中を見送ると私も手ごろな石を拾い墓石に打ち付ける。何百年もかけて削られ続けたその墓碑銘はもはや不明瞭で、かろうじて「――蔵助」の一字が残されている程度だ。墓石を守り袋に詰め込み手を合わせ黙祷する。
(結菜姉ちゃん助けて!)弟の末期が脳裏をよぎり、決意を後押しする。
今夜決行。
あの男を殺す。
泉岳寺から高輪ゲートウェイ駅へ向かう途中の伊皿子坂で、先ほどの老人が事切れていた。正面から両手首を切り落とされ、喉笛を一閃されている。匕首を抜く間もなかったか。情け無用の業前だが、血だまりに沈む老人の顔はどこか穏やかさを湛えていた。
(彼はついに解放されたのだ)遺体に手を合わせる。返り討ちはまだ幸福だ。仇に出会えなかった者は死後永遠に彷徨うことになる。
私もこの人のように死ねるだろうか。
24時過ぎ。京浜東北線下りの終電車。ドアに体を預けるようにして、標的がそこにいる。夜毎に張り込み観殺し続けた作業だ。開扉と同時に無人のホームへ引き込み首を切断するだけの作業。もはや仕損じることはない。
だけど、結論から云えばあの男は現れなかった。この日を境に東京都に緊急事態宣言が発せられ、標的の勤める大手通信会社が全面テレワークを開始したのだ。こうして私は仇討ちの機会を失ったというわけだ。
仇討ち失敗の翌朝、APAを引き払った私は港区魚籃坂のあの忌々しい探偵社へ向かう。父母と弟を殺害した刺客、佐々木与四郎を追うための手掛かりが必要だ。東京都の緊急事態宣言に乗じテレワークによって卑劣にも逃げおおせた男である。捜索のためにはあの探偵社の力を借りる必要がある。
老人が斃れていた場所には真新しい仏花が備えてあった。東京都清葬局の仕事は早い。改めて手を合わせると伊皿子坂を上り始める。これを上りきった先に『魚籃坂復仇探偵社』がある。(作者註:探偵社を訪問する際、危険な「病院坂」へ迷い込まないように注意していただきたい)
早朝であり、あのクソ探偵が起きていると思えなかったが、とにかく行動を起こさなければ落ち着かない。スーパーマーケットの向かいに建つ雑居ビルの二階にへ上がると、意外なことに探偵社の主人が鼻歌交じりにクロスで看板を磨いていた。
「あれ、本間ちゃん。まだ何か御用ですか?」
ぼさぼさの頭髪にニヤニヤ丸メガネ、スキニーな黒スーツだが、残念なことに猫背で長身が目立たない。この世の胡散臭さが結集したような帯刀の男が探偵社の主人堀部堀兵衛(おそらく偽名)だ。
「仇討ち成功したんでしょ。よかったねー」
探偵は一方的にベラベラと語ると、私に向き直り懐から血の付いたキティの仇討守りを取り出し、にへらと嗤う。
「いやあ僕もね、うまいこと返り討ちに成功してさ」
その瞬間、血が冷たく沸騰していた。思えば仇討ちに失敗したことへの八つ当たりだったかもしれない。だが、その態度が許せなかった。
探偵のにやけ面へ向けて下手投げのワンアクションで苦無を投擲、のはずだったが、利き手が探偵に切断されていた。ホルスターに取り残された手首が地に落ちる。遅れて血を噴き出す滑らかな断面を呆然と見つめる私の首を返す刀で水平に一閃。皮一枚を残して断首。お美事。
「駄目だよ、本間ちゃん。又仇は禁止でしょ。そもそもあなた何の関係もないじゃないの」
全身を冷汗が逆流し、ハッと我に返る。この一瞬の攻防は視線だけで行われた。瞬間沸騰した筋肉の起こりを探偵が察知。水もたまらぬ斬殺のイメージで殺意を殺したのだ。
「とりあえず中に入んなよ。僕にコーヒーを淹れてくれてもいいよ」
又仇(またがたき):重ね敵(かさねがたき)ともいわれる。仇討ち・返り討ちに対するさらなる報復のこと。報復の無限連鎖を誘うため都条例により禁止されている。
「だから返り討ちだってば。武家の習い」インスタントコーヒーをすすりながら探偵が釈明する。応接テーブルに無造作に置かれた仇討守りは、探偵が以前殺害した一家に由来するものだという。「こう見えても僕にだって一つや二つの秘密があるのよ」全身から胡乱さを放ちながら堂々と言い張る姿には逆に尊敬すら覚える。
「これでノーカン!この守り袋を東京都に報告すれば晴れて自由の身になるってわけさ。面倒な探偵稼業もおしまい!」
「ちょっと待って、仕事を頼みに来たんだけどおしまいって」
「ほら、僕って仇持ちに狙われる立場じゃない。蛇の道は蛇っていうか、仇討ち相手を探す仕事をしていれば僕を狙ってる人を先に見つけることができるわけでしょ」
「ズルでしょ」
「そのズルで仇を見つけたのは誰でしたっけ?」
「う……」
「それに都内で仇討ちする人は必ず泉岳寺に向かうし、魚籃坂に事務所を構えていれば闇討ちできるかなーって、あ、でも権藤さんとの決闘は尋常のものだったよ。あの人強かったなー」
僕のほうが強いけどね、と付け加えてにへらと嗤う。やはり忌々しい男だ。この男に頼るんじゃなかった。でも。
探偵事務所の応接室を沈黙が包む。探偵が東京新聞を読み始める。街路を行きかうスーパーカブの音が聞こえる。
「で、何の御用?仇討ちは済んだんでしょ?」
「それが……」
私は彼が読む紙面の裏側を指さす。一面には【東京都緊急事態宣言】の文字が躍っていた。
仇討ちの終了:仇討ちを都へ申請した場合は自治体へ終了報告を行わねばならない。仇討ちを果たしたものは仇の首や耳、返り討ちにした場合は守り袋等の故人証明ができるものを用意する。終了した仇討ちは朝刊のお悔やみ欄に掲載される。
「つまり、そういうわけでもうひと仕事お願いしたいんです」
「やだ」
探偵はにべもなく即答する。私は拳を握りめてうつむく。鼻の奥が痛み涙がこぼれそうになる。父上、母上、蓮……。
「そんなのはね、自分でやればいいじゃん」
「は?」
「この探偵事務所を貸してあげるからさ」
「『伊皿子返討探偵事務所』とでも名乗って、僕みたいな凶状持ちからの相談を受け付けるの。仇討ち情報を横流しして顧客を逃がして名を上げれば」
「いつか、私の仇も相談に来る?」
「そう!」
「でも、平気なんですか仇討探偵社が返り討ちも兼業して」
「いいのいいの、 Uber Eatsだって寿司とピザが看板だけ変えて同じ店から届けにいくでしょ」
「えっ そうなの」
「知らなかったの? これだから世間知らずの忍者は」
「バ、馬鹿にしないでください!」
こうして私はこの忌々しい探偵と同居をしながら探偵業を始めることになってしまったのだ。数々の事件に巻き込まれることになるが、それはまた別の機会にお話をしたいと思う。
「それにしてもお仲間を売るなんて本間ちゃんもヒドい人だねー。バレたらお礼参りに遭うよ?」
「うるさい!!」
後方から茶化し続ける探偵を無視して私は探偵事務所のWebページと広告マグネットの作成に着手した。こう見えても仇討ちと並行して派遣社員としてITスキルを磨いた私だ。必ず標的を釣り出して見せる。
安良さんにイメージ挿絵を描いていただきました!