「海のはじまり」における責任問題。水希について
初回をみた感想でわたしは「海のはじまり」は「責任」と向き合うものがたりになるだろうと書いた。
自己責任の圧力が強い時代になった今、子どもを産むこと、その子どもを育てることは「責任」とセットになっているから。
「海のはじまり」を9話までみたが、やはり「責任」がさまざまな場面で描かれている。だかそれは責任をいかに取るかという物語ではなく、責任の呪縛を解放してくれる展開だった。
責任を辞書で見るとこんな意味になる。
視聴者の意見として、水希に責任を求める声はよくみかける。夏に黙って産んだことは、倫理的には無責任と言われて当然だろう。
知らせなかったのに、後から会いに行くなんて無責任という非難もみかけた。ここはわたしは無責任とは思わなかった。自分の死を前にした行動として、夏を頼るのは、海の幸せを最優先にしたとき当然だと感じた。
自己中心的で他人を振り回す人が多いから、そんな嫌な人を水希に投影して受け入れられずに責める人もいるのだろう。
だけど、自己中心的な人よりも、他人に迷惑かけないように自己を押し殺して生きる人のほうがきっと多い。
水希はそんな人たちに向けて描かれているのだと思う。
水希の人生は自由に生きること、自由の大切なもののために精一杯生きることを肯定してくれる。
何かに対して責任として行動すればそれは自由のない「義務」になる。だが、自らの意思で行動すれば「義務」から解き放たれた自分の人生が生まれる。
自己中心的にみえた水希が回を重ねるごとに、少しずつ理解できるようになる。水希は自己中心ではなく、それぞれが自分の人生を生きることを何より大切に思い、精一杯守ろうとしているのだと。
ドラマを見続けることで水希を好きな人たちに共感して、さまざまにな場面の水希に共感して、やがて水希に好意を抱くようになる。
いつしかそこには「無責任な人」ではなく「水希」がいる。