「海のはじまり」第四話 それぞれの物語

今まで胸が苦しかったけど、今回の話で救われた。頑張ってみていて報われた。とてもよかった。

今回も弥生と朱音の苦しさが痛いほどあったけど、これまでドラマのなかで外野にいた人たちが自分の物語を語りだしたことで、受け止め方がまた変わる。

これまで見ていてつらかったのは、弥生と朱音が物語の外野にいたこと。主旋律は夏と水季と海の物語であって、そこに翻弄され傷つけられる二人の姿はみていられなかった。

けれど、今回はその二人が自分の人生を生きてきたことが二人の視点からしっかりと描かれる。それは、過酷なことではあるけれど、外野であり疎外された無力感ではなく、人と人とかぶつかり合いすれ違う悲しみだった。

こんな風に思うのはわたしだけなのだろうか。自分が蚊帳の外にいることの苦しさが、何よりも耐えられない。

次回から物語は次のステージになるのだろう。

物語は「選択」が表向きのテーマになっている。「普通」は選ぶことなく築かれる家族という関係性を「あえて選ぶ」家族と交錯されることで、「選ぶこと/選べないこと」の苦しさや希望を描きだす。

海の「はじまり」と「おわり」のなさが第一話で提示されていて、これも大きなテーマなのだと思う。

これは円環として「はじまり」は「おわり」であり、「おわり」ははじまりであるという解釈もできるだろう。

けれど、わたしはどこかで読んだ「海の波は海全体が押し寄せ、海全体が引く」というイメージにも繋がるように感じている。

通常の物語というのは過去があり、現在がある。

だがドラマを見ている者からすると、過去の物語が現在と並行して進んでいる。登場人物たちの過去と現在が同時に押し寄せてくる。

過去が現在を生み、現在が過去を照らす。現在が過去の意味を書き換え、その過去が現在を救う。

原因があって結果があるという時系列で人は生きていない。

今の自分がどう生きるかで結果が変わる。

夏が、弥生が、海が、朱音が、どう生きるかで、水季の人生の意味が大きく変わっていく。

そこにはきっと「はじまり」も「おわり」もないのだろう。


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