修復の師匠・フリア
自分の工房をスタートして3年が経ちました。
今日は原点からの振り返りとして修復の世界への出会いを。
元々は職業訓練学校の大工コースからスタートしたんですが
その辺りの流れはこちら↓
職業訓練学校のコースでは2年目の後半、実習研修がカリキュラムに入っています。学校が斡旋してくれる木工関係の職場で半年ほど研修をします。
が、
学校から紹介される先はたいていが、出来合いの建具を組み立てに行ったり合板でキッチンを組み立てるようなお仕事。
個人的に、全然萌えない!仕事でした。
しかも、先生に
「お前、行った先に女子トイレとかないぞ、ヌード写真のポスターとか絶対貼ってあるぞ。いいか?」って。笑
男子ばっかりに紅一点(紅だったかどうかは別として)のコースだったし、
学校の工場見学で行く先々、必ずヌードポスター貼ってあったし
その辺は慣れていたので構わないんだけど、
萌えない仕事をするというのがとにかく萎える。
ということで、
自分で研修先を探すことにしました。
そんな週末に街中を散歩中、たまたま見つけたのがインドネシアからの輸入家具を扱うお店でした。
なんと、「修復家募集」と紙が店先に貼ってあって
今思うとありえない募集要項ですが、飛び込みました。
お店はインドネシアからの輸入家具が搬送中に傷んだものを直したり、古くない家具をエイジングしてアンティークに見せかけたりするというお仕事でした。
そして2ヶ月くらい通っていましたが、どうにも怪しい。
「木材は全部トロピカルなチーク材だし、そもそも新しいものを古臭くしてなんか騙してるぞ・・・。今日なんて、石彫り仏陀の頭のエイジング。。。しかも同じ頭20頭。」少々うんざりな毎日になっていました。
そんな時にローマへ旅行して、本当のアンティーク家具工房を見て、やっぱり私がやりたいのはこれだ、ヨーロッパの家具に触れたい!と考え直し、相談した現場の先輩・元GOGOのオネエにも尻を叩かれ、
元GOGOに尻を叩かれる件とその辺りのご縁の家具のお話↓
そうしてこちらのお店はやめることに決めました。
改めて、また研修先探しが始まります。
今度は外さないぞ!と(懐かしの)イエローページで家具関係のカテゴリーにあるものを全部書き出して
当時、確か”家具修復工房”という一覧があって、バルセロナ市内に7、8軒。
どこも温かく迎えてくれたけれど、人手には困っていないしと断られ、
この職はもう先がないからと悲しい言葉を放ったおじいちゃん修復師もいました。
そして5軒目くらいに尋ねたのが師匠・フリアでした。
自転車でたどり着くと、お店の前をお掃除している女性が。
声をかけて事情を話すと、「ちょっと手続関係を相談してみるわ」とのこと。
後から聞いた話だけど、お店の前を綺麗にしておくと良い話やご縁が舞い込んでくるという説をフリアは信じていたらしく、そんなお掃除中に私が現れたのでポイント高かったらしい。笑
後日、あっさり「来てもいいよ」と連絡をくれて正式に研修生となりました。
ところが、最初に立ちはだかった壁。
は、
なんと犬。
工房で飼っていた犬・フォスカがやたら警戒心が強く、吠えられまくって仕事にならない。
仕方がないので最初の数日は近くに座っておやつタイムをし、クッキーをあげまくってフォスカと友達になるのが最初の作業でした。笑 滞在許可証は犬に給付されるという。。。
そうしてフォスカと雪解けしながら段々と修復の色々な案件を見ていくことになります。そして見れば見るほどどんどん素敵な家具の世界にハマっていきました。
午後は学校があるので研修は午前のみで、お客様の顔はほとんど見ることがなかったけれど、近所の籐編み工房、ガラス工房、金属専門工房などなどにも連れて行ってもらい、今はもうすっかりなくなってしまった昔ながらの手仕事の世界を見ることもできました。
家具の仕事は仕上がりに影響のない作業からスタートして少しづついろんなことを教わりました。
いろんな様式の家具が入ってくるたびにその家具の裏にある物語も見えてきて、
おじいちゃんが使っていたベビーチェアを自分の子供に使いたいお孫さん、とか
歌でした知らなかったような大きな古時計が実際にあって、それを修復するだとか、
弁護士事務所のどえらい偉そうな家具だとか。
もう一度見たら忘れられない面白さがそこには詰まっていて
続けるしかありませんでした。
家具修復の世界に入った私に学校の先生も学校の専門誌を貸してくれたり、
ノートをいつも貸していたクラスメイトは卒業祝いに修復の本をくれたり。
そうしてどんどん自分はこの世界に生きるのだ!と思い始めたのでした。
フリアが修復を始めたのは30歳くらいで、修復専門学校へ行って学び、当時のパートナーと30平米の工房からスタートしました。私が知り合った時は55歳。
25年のベテランでしたが、来る案件、すべてがまったく違う作業なのでいつも納品時にはドキドキしていました。今の私も同じです。
おっちょこちょいで、落ち着きはないしアンダルシア訛りで早口だし、
勘違いも日常茶飯事、とんでもない天然キャラ。
笑ったかと思えばすぐ怒るし、怒って泣くし、悲しくて泣くし
感情の塊のような人だけれど、
だからこそ言葉が通じきってなくても分かり合えたのかな、と思います。
いまだに、当時スペイン語をまだちゃんと理解しきれていなかった私に「あんだけアンダルシア訛りの早口で喋ってたのに、あなたよく私のこと理解できたわよね」と笑います。私も、わかってるんだかわかってないんだかわからない怪しいアジア人によく付き合ってくれたな、と思っています。笑
でも二人ともロマンチストで、家具の向こう側にあるストーリーを思い浮かべてうっとりしたり、繊細な、誰も価値を見出さないようなものにときめいたりしてばかりなので、だからこの仕事を続けていられる、いられたんだと思います。
一度、作業中の鏡を私が力みすぎて割ってしまったことがあります。
これはもうクビになっても仕方ないな、と覚悟を決めましたが、
なんとフリアは私をコーヒー飲みに連れ出しました。
特に鏡の話はせず、普通にコーヒーを飲んで普通に話をして
(私はハラハラですけど)
そしてまた次の日も工房へいきました。
今、フリアのことを深く知っていて思うのは、
あの時彼女もパニクったんだと思います。
本当に人がいいので、怒ったりそれで私を責めたりできなかったんだと思います。
でもあの時怒られていたら、その後のすべての作業が怖くなってしまっていただろうし、本当にあの時のコーヒープランには大感謝してます。
おかげで今でもガラスや鏡にはものすごくデリケートだけれど、私も何かを壊しても絶望せず、コーヒーでも飲んで解決策を考えるようになりました。
そしておやつタイムを二人でめちゃくちゃ楽しんでいたので、季節ごとに食べるべきお菓子(カタルーニャの習慣に沿ったお菓子がいっぱいあります)を買いに行ったり近所の行きつけカフェに通ったり、フリアレシピを教わったりいろんな意味で学生生活をしているだけでは知らなかった世界を見せてもらいました。
前日にニスを剥がしてまっさらにしておいた家具が、翌日行くとニスを塗られて仕上がっている時、いつもの”おっちょこちょいフリア”の中から”凄腕フリア”が出てきて魔法をかけたんだな、ってゾクっとすることが何度もあって、それが大好きでした。
いつか、一度数ヶ月ほど日本へ帰国していたことがあります。
帰る前に別れる時、「戻ってくるから!連絡とって繋がっていようね」と言ったら「No lo perderemos(このご縁は失くさないわよ)!」って言われたのが何故かとても印象に残っています。嬉しかったのかな。
そして今でもちゃんと失くさずにいられています。
遠く離れた場所で見つけた大きな大きな、大切なご縁でした。
まさに人生を変えてくれたキーパーソン・フリア。
師匠をこえて、スペインの親戚のおばちゃん・フリア。
私の人生に現れてくれて本当にありがとうです。