『僕たちの青春はちょっとだけ特別』が特別に優れている三つのポイント
すみません、まだ読んでいる途中なんですけど『僕たちの青春はちょっとだけ特別』はとんでもなく素晴らしい作品なんじゃないかこれ。僕がいう話じゃないですけど、鮎川賞のほうに送ってもよかったんじゃ。。。もし自分が選考委員なら、作家生命かけて推してると思う。
— 鵜林伸也 (@Ubayashi_Shinya) January 11, 2025
瞠目しました。これは、とてつもなく素晴らしい作品であると。最終話を読んでいる最中に僕はそう確信したんですが、結末を迎え、瞠目を飛び越え感動してしまった。エピローグのとある一文(後述します)を読み、涙ぐみそうになってしまいました。根が無感動な人間なので、滅多にないことなんですよ(笑)
これは、全力で推さねばならない。そんな使命感に駆られ、こうして筆を取っています。
『僕たちの青春はちょっとだけ特別』という作品は、どこが特別に優れているのか。おそらく誰もが「知的障害者や支援学校の様子がリアルに描かれている」という点を挙げるでしょう。
たしかにそれは美点です。しかし、特別な美点ではない。あえて極論を言いますよ? 「リアルに描く」のは、実際に働いたり接したりという経験+ある程度の筆力があれば、誰でもできることです(いや実際はそう簡単な話ではない、というのはもちろん分かったうえで)。支援学校の様子がリアルに描かれているという美点は大前提として、それ以上に優れたところがあるから、僕は本作を激推しします。
というわけで、その三つのポイントを紹介しましょう。
1.「知的障害者の目線」で描かれることで上がる、ミステリの強度。
先に、公式サイトからの内容紹介を引用しておきましょう。
中学時代、クラスのお客様扱いでぼんやりと過ごしてきた青崎架月。15歳の春、この明星高等支援学校に進学したことで、そんな日常にちょっとした変化が。先輩が巻き込まれたゴミ散乱事件、ロッカーの中身移動事件、生徒失踪事件を同級生や先輩の手を借りながら解決していく。高等支援学校を舞台に、初めてできた友人たちとの対等な付き合いに戸惑う架月の青春と、彼が出合った謎を描く連作集。
主人公の架月は、いわゆる「知的障害者」です――と記すことに、僕は抵抗を覚えます。なぜなら、作中に(僕の記憶がたしかなら)一度もその言葉が出ていないから。ある意味、当然のことでしょう。だって、多くの知的障害者は、なかなか自分のことを「知的障害者」であると自認できません。
つまり、それぐらい本作は、徹底して「知的障害者目線」で描かれているということです。
そのうえで、よくぞこの設定で書き切った!と絶賛したいのは、知的障害者である主人公自身が探偵役としたこと、です。
たとえばあなたが、支援学校を舞台にミステリを書くことを想像してみてください。普通に思いつくのは、主人公は新人の教師(ワトソン役)で、障害を持った子供たちが起こす事件を、先輩の教師が探偵役になって解決する、というようなストーリーではないでしょうか。もちろん、それはそれでおもしろそうです。
じゃあなぜあなたは、その形式を選択しましたか? ――おそらく答えは「書きやすいから」です。つまり本作で筆者はあえて「書きにくい形式」を選択しているんです。
いったいなぜ、書きにくいのか。理由のひとつは、作者が感情移入しにくいからです。誰でも、自分に近いキャラを主人公にしがちです。書き手は大人ですから、子供目線で書くのは難しい。まして本作の作者は支援学校の教師なのですから、教師を語り手にするほうが書きやすいに決まっています。
そして、こちらのほうが肝なのですが、もうひとつの理由は、そもそも「ミステリとはなんぞや」という話です。
ミステリとは、一見してよく分からないもの(ミステリアスなもの)を、説明(ロジック)によって解き明かすもの、です。基本的には、一般人(作中人物、及び読者)には解けず、超人たる名探偵によって解き明かされます。
しかし、本作の名探偵は、超人どころか、知的障害者なのです! そりゃあ、書くのが難しいに決まっていますよね!
超人である名探偵が事件の謎を解くのは、ある意味「当たり前」のことでしょう。知識も観察力も推理力も並外れているのですから。しかしそれらを、人並どころか、普通高校に通うことすら難しい人物が解く。ミステリとしてのハードルが、爆上がりしていると思いません? しかし、収録されている三作品はいずれも、見事にこのハードルを越えています。絶賛しかない。
僕は、どの事件の謎も、主人公より先に解くことはできませんでした。つまり、問題が簡単すぎるわけではない。そして、主人公による謎解きに「いや、知的障害者には無理でしょ」と思わせる不自然なもの(オーパーツ的なもの、と例えると分かりやすいでしょうか)もありませんでした。それだけ「分かってみれば誰でも理解できる手掛かりやロジック」で謎が解かれているのです。
一般の読者に「分からないなあ」と思わせる謎を、知的障害者の知識と観察力と推理力で解く。当たり前に名探偵が謎を解くより、はるかにミステリの強度が上がっていると思いませんか?
難しい謎を難しく解くのではなく、難しい謎を「うわー、気づかなかった! それなら自分でも解けたのに!」と読者に地団太踏ませるような「簡単なもの」で解く。それこそが、ミステリの醍醐味でしょう。知的障害者を探偵役にした本作は、設定の時点でその醍醐味を備えているのです。
2.これは変種の〇〇〇〇ミステリである!
先に〇〇〇〇の答えから書いておきましょうか。この作品は「変種の特殊設定ミステリ」として読める、というお話です。
いやいや特殊設定物とはかけ離れているでしょ、というご指摘はその通り。たとえば「魔法が使える世界」などの「現実ではない特別なルール」を設定しておいて、その設定を生かした事件やトリックが起きるのが特殊設定ミステリです。
しかし僕は、いわゆる特殊設定ミステリの定義において「現実ではない」は不要ではないか、と考えています。一般的ではない特別なルール、ぐらいで構わないのではないか。たとえば、古い因習を頑なに守る村で起きた事件、は現実で起こりえますが、普通ではないルールをミステリに生かしていれば、特殊設定ミステリとみなせるかもしれません。少なくとも、亜種、近い存在、とは言えるでしょう。
さっき僕は、特殊設定ミステリの例として「魔法」を上げました。ようは、普通の人間にはできないことができる状態、バフがかかった設定のミステリ、でしょう。逆に、支援学校を舞台にしたミステリは、普通の人にはできることができない、デバフがかかった状態、と見なせるのではないか。矢印の向きがちがうだけで、特殊な状態であることは同じなのではないか。
さて、いわゆる特殊設定ミステリについて、僕はふたつの評価軸があると思っています。ひとつは、それがリアリティーで説得力のある設定であること。ミステリのために作られた説得力の薄い特殊設定は、高く評価できません。もうひとつは、その特殊設定が有機的にミステリに絡んでいること。別にこの事件は特殊設定じゃなくてもよくない?となると、評価が下がります。
それを踏まえて、本作です。特殊設定のリアリティーについては、最初に触れたように、掛け値なしに「ある」と評価できます。様々な障害を持つ生徒たちが登場しますが、どれも「いるいる」と思えるもの。彼らの行動や障害の程度もきちんと一貫性がある。ミステリとして成立させるために、実際にはまずない障害を作ってしまうとか、あるところで変に賢くしてしまうとか、そういう欠点が一切ありません。
そして、三つの短編いずれにも、特殊設定が有機的に絡んでいます。事件の関係者が障害を持っているのでなければ、起こりえない事件でした。いえ、もっと言うなら、いつまでも窓拭きを続けてしまう主人公、遅刻防止のためのアナログ時計のタイマーなど、見事な伏線としても使われています。
念のため書いておきますが、この項は「特殊設定ミステリとしても読めるからすごい」という主張ではありません。知的障害(という特殊設定のようなもの)を抜群に生かしているミステリだからすごい!という主張です。ここまできっちり丁寧に設定を生かし切ったミステリは、なかなかお目にかかれません。
3.描かれているのは、知的障害者の「〇〇」
知的障害をテーマにした作品、と聞いてあなたはなにを思い浮かべますか? 『アルジャーノンに花束を』『裸の大将』といったあたりが有名ではないでしょうか。しかし本作には、それら先行作とは決定的に異なる点がある、というのが本項での主張です。
ここから先は、真相のネタバレはしませんが、展開について若干ネタを明かしつつ話を進めます。本項を読んでからでも問題なく作品を楽しめるとは思いますが、一切のネタバレなしに作品を読みたい!という方は、ここで回れ右をしてください。
僕は、先にポストしたとおり、最終章の半ばで本作を「傑作だ」と確信しました。厳密に言うなら、最終章で起きる事件がいったいなにかが判明したとき、です。
第一の事件において、教師たちは架月に対して、探偵となって事件を解いてみるよう促します。それは、事件の「犯人」が実は、教師だったからです(この事実は謎解きの前に明かされますし、ミステリとしての肝は「なぜそんな行動をしたのか」ですので、ご心配なく)。
続いて起こる第二の事件は、教師は犯人ではありません。生徒同士のトラブルです。しかし教師たちは実は真相を知っていて、架月の探偵ぶりを見守ります。
そして最後、第三の事件は、生徒の失踪事件です。これは、教師も一緒になって生徒の行方を捜しまわります。
お分かりいただけたでしょうか? 第一、第二、第三と、順に事件の深刻性が増していっているのです。内情をすべて教師が把握し、架月に探偵をやらせても問題ないと考えていた第一の事件は、いわば練習問題のようなもの。次は、真相こそ分かっているものの人間関係にはセンシティブにならなければならない事件。最後は、大人も困っている「本物の事件」です。
この時点で、はっと気づきました。そうか、この作品は、架月の成長を描く物語だったのか、と。そしてその時点で僕は、本作を傑作だと確信したのです。
『アルジャーノンに花束を』は、知的障害者に知能指数を高める手術を行い、それとともに起こる本人や周りの変化を描く物語です。僕も、とても好きな作品です。しかし『アルジャーノンに花束を』が描いているように、知的障害は「治療するもの」だったのです。
では『裸の大将』はどうか。子供のころ何作か見ただけ、という浅薄な知識で語ってしまって申し訳ないのですが、描かれていたのは知的障害者の純真性だったように記憶しています。大人になっても子供の心を持っていたからこそ、山下清は素晴らしい絵を描くことができた。永遠の子供、とも表現できるでしょう。
これまで知的障害者は、健常者が治療を「してあげる」存在、あるいは、健常者がその中に「永遠の純真性」を見出す存在として描かれてきました。それそのものが悪いわけではありません。ただ(寡聞にして僕が知らないだけかもしれませんが)知的障害者自身の「成長」を描いた作品は、今作が初めてなのではないか。そう気づいた瞬間、これは傑作である、と確信したのです。
三つの事件の「深刻度」を上げていっている時点で、作者がその点に自覚的であるのは明らかです。そう気づいて読むと「成長」がこの物語の肝になっているな、と分かるシーンがいくつもいくつもあります。「成長を描くんだ」という芯が一本通っている。
これまで知的障害者を描いてきた作品は「治療者」や「介護者」の目線からでした。しかし今作は「教師」の目線から描かれているんです(実際に作者は支援学校の教師なのですから、それはそうなんですが)。徹頭徹尾、骨の髄まで、教師。
そう気づいたうえで、第三話の解決編を読んだわけですよ。いやあ、ひっくり返った。一貫して「成長」を描き続けていた作者は、やはり、最後まで「成長」を描き切ったんです。事件自体は「生徒の失踪」ですが、第三話におけるもっとも魅力的な謎は「なぜある登場人物は特定のシーンで動揺したのか」であると思っています。その謎の答えは、あっと膝を打つものであると同時に、まさに「成長」を描いてくれているものだった。ミステリと物語の幸せな結婚。それがこの第三話にはありました。
ここからは少し私事になりますが、学生時代、介護等体験の実習で一週間ほど知的障害者施設に行ったことがあります。そこは入所型の施設で、入所者の多くは、年を取って両親が亡くなり、一人で暮らすことができなくなった障害者でした。
そこで僕が学んだのは「同じ障害者でもこんなに個性があるんだ!」ということ。「永遠の子供」というイメージは、まちがいではありません。しかし、子供にも一人一人個性があるように、障害者にも個性があります。みんな、見た目はおじいちゃんおばあちゃんなんですけどね。それこそ子供のように甘える人もいれば、こずるい人もいるし、自分の殻に籠る人もいる。賑やかな人もいれば物静かな人もいる。
いや、そんなのは当たり前のことなんですよ。しかし我々は、その当たり前のことを、忘れがちです。「永遠の子供」「無垢」「純真性」というキレイなワードで閉じ込めてしまっている。
翻って、本作はどうか。本当に、登場人物一人一人の個性が、これでもかというほど生き生きと描かれているんですよ。彼らは、治療を待つだけの存在ではない。きらきらした純粋な心だけを持った存在でもない。それぞれに悩み、迷い、ときには我がままを言い、周りを傷つけ、それでも成長していこうとしている存在なんです。高らかな人間賛歌なんです。
僕があのとき見た知的障害者のリアルを、ここまでくっきり描いてくれた作品は初めてでした。
エピローグのある一文で、僕は涙しそうになりました。比喩ではなく。ミステリとしてのネタバレにはなりませんが、僕個人としては、前知識なくこの一行に触れてほしい。なので、未読の方にはここで回れ右して四の五の言わず作品を読んでほしいんですけど(笑)それでも気になる、という方向けに、作中から引用しておきます。
その文章は、こちら。
褒められたら喜ぶ。
当たり前のことなんですよ。そんなの当たり前です。知的障害者だって、褒められるのは嬉しい。しかし、その当たり前のことを、ここまで丁寧に描き切った作品は今までなかった。褒められて喜んだり、叱られてショックを受けたり、望みが叶わなくて苦しんだり、問題に直面して悩んだり。
そういうものを通して、知的障害者一人一人は、成長していく。この作品は、そういう物語です。
知的障害者の目線で描くことによってミステリの強度を上げ、特殊設定ミステリとしても非の打ちどころのない完成度であるうえ、「知的障害者の成長」というこれまでにないテーマに真っ向から取り組んでくれた。そんな作品を、絶賛しないわけにはいきません。
本当に、素晴らしい作品です。ぜひ、広く読まれてほしい。そして、続編を読みたい。心から期待しています。