見出し画像

資料:ドンバスに生まれ育って【下】――ウクライナ「社会運動」活動家ハンナ・ペレコーダが語る故郷の喪失

■当noteからの紹介

 ハンナ・ペレコーダとこの文章の背景については、資料:ドンバスに生まれ育って【上】で紹介しているのでそちらを参照のこと(資料:ドンバスに生まれ育って【上】――ウクライナ「社会運動」活動家ハンナ・ペレコーダが語る故郷の喪失|ウクライナの社会運動に連帯の募金を送ろう!【送金を終了しました】)。

■ドンバスは「ソ連への回帰」を夢見る

(「上」から続く)
 
 ドネツク出身の私が驚いたのは、この地域により大きな経済的な、文化的な力を与えよという彼ら(分離主義者)の要求でした。クラフチューク政権(1991-1994年)とユシチェンコ政権(2005-2010年)時代を除けば、ドネツクとドニプロペトロウシクの地方閥がずっと権力を握っていたので、長年にわたってドンバスは破格の補助金を受け取っていました(注:ドンバスの鉄鋼や鉱山は、ソ連時代の設備の老朽化でそれほど外貨を稼げるものではなくなっていたため、補助金に支えられていた)。

 しかし、「ドンバスのカネがリヴィウとキエフの怠け者たちを養っている」という呪文を飽きずに唱えていた地元のボスたちは、実はそのカネを自分の懐に入れていました。ドンバス地方の経済は、地元当局=ボスたちによって完全にコントロールされていました。これ以上さらに権力が欲しい? もっとカネが欲しい? この23年間、人びとを犬のように働かせ、「ドンバスをひざまずかせた」地域のボスたちにとって、何が不足だったのでしょうか。

 どの言語を話すか、どの英雄を讃えるかは地域ごとに決めるべきだと、彼らは言います。しかし、地方分権を主張するのであれば、まずはそうした文化概念についての中央集権がこの国で現に行われているという事実がなければならないはずです。しかし、この地域で過度な「ウクライナ化」が行われているとする主張は、現実と一致しておらず、むしろ矛盾しています。

 ドネツクでは、ウクライナ語はアラビア語よりもエキゾチックに聞こえました。私はドネツクの街でウクライナ語の会話を聞いたことがありません。ウクライナ語の新聞は発行されておらず、地元のテレビ局はウクライナ語で放送していませんでした。ウクライナ文学についての本を入手するには、キーウに注文する必要がありました。「非ウクライナ化」の最後のステップは、政府庁舎からウクライナ国旗を撤去することでしたが、そもそも国旗の存在は、東部における「ウクライナ」の存在をわずかに示す印にすぎませんでした。しかし人々は、それをもって「非ウクライナ化」への一歩を踏み出したというのです。

「ウクライナ」というプロジェクトは、独立からの23年間、ついにドンバスをその一部にできなかったことによって挫折しました。歴史的レガシー、民族的アイデンティティ、言語といったものではなく、未来に向けた共通のビジョンによって団結するというアイデアを見つけることができなかったためです。そのため、「ウクライナ」は自由を求める闘争の英雄的かつ悲劇的な歴史を生き、「ドンバス」はソ連への復帰という夢を見るようになりました。

「ソビエト人民を作る」という(ソ連時代の)プロジェクトはドンバスで成功し、そして今、その果実を刈り取る時が来ました。スターリンとキリストという二つの偶像を掲げて「キエフのクーデター政権」を撃退しているという説明を真に受けるべきではないでしょう。それらは単なるシンボルであり、見せかけであり、お守りにすぎません。ドンバスの人々は、「父」(バチャ)のイメージを体現する人物に従いたいという願望に突き動かされているのです。

■水平的なつながりをつくれなかった社会

「剛腕」を求めるこのような願望はどこから来るのでしょうか。ジャーナリストたちは、「精神的にも、生理的にも、そしてほとんど遺伝的にも、彼らが奴隷であり、ソヴォク(ソビエト人、ホモ・ソビエティクス)であり、不合理であり、さらに無学であるからだ」などと単純化した説明をしますが、私はこのような主張は受け入れられません。(キーウとドンバスの)ギャップを生物学的にほとんど克服不可能なものにしてしまうような主張は、共通の土台を見つけようとする試みを、始める前に失敗に終わらせてしまうことになるからです。

 なによりも、この地域の社会が水平的な横のつながりをつくる経験を持てなかったことを忘れないでください。それをつくるチャンスは、(独立時の)1991年に与えられましたが、犯罪者集団(注:オリガルヒを指す)はすぐにそれを悪用したのです。「剛腕」のバトンを(ソ連から)引き継いだ犯罪者集団によって社会的福祉は置き去りにされ、これれをどうにもできなかった労働者たちには、失望だけが残されたのです。

 何も管理せず、国民に責任を転嫁する政府があるとすれば、それは弱い政府だということになります。ドネツクの多くの人々は、民主主義をそうした弱い政府のあり方だと考えています。なぜ住宅政策が破綻しているのか、なぜマンションの階段の電球が切れたままなのか、それはウサギのように増え続けた「民主主義」のせいだと、ソ連時代の秩序に慣れた彼らは考えます。「自由」とは、好き勝手なことをしながら、ぎりぎりのところで生き延びる自由のことだと理解され、誰も求めないものになってしまいました。

(留学して)ヨーロッパの国で暮らした経験のおかげで、私は自由についての自分の理解の間違いに気付きました。私は「西側」のクラスメートに、秩序と自由のどちらがより重要なのかという永遠のジレンマについて説きましたが、彼らは、それは中世の考え方だと指摘しました。ヨーロッパ人にとって、各市民の自由こそが秩序を保証するものでした。選択の自由と民主主義は、社会がリーダーの地位に選出した人々をコントロールできるようにする唯一のメカニズムなのです。

 ドンバスは1991年まで生き、その後は「生き延びた」だけで、末期患者のような状態でした。繁栄とともに消えたのは高給だけではありません。明るい共産主義の未来を築くために鉱山労働者が挺身するというスローガンを信じて生きる意味も消えてしまいました。特権も、将来への希望も、仕事への誇りも消えてしまったのです。貧困にある社会は操作されやすい。そして、機会あるごとに「ドンバスがウクライナを養っている」「ドンバスを屈服させることはできない」と叫んでいた人々(地域ボス)は、貧困ライン以下で暮らすこの地域の住民を犠牲にして、自分たちの快適な未来を確保したのです。

 この20数年、ソ連で生まれたドンバスの人々は、ソ連を懐かしみ、良いことだけを記憶してきました。母は、幼稚園で毎日おいしい牛乳が飲めたこと、若き芸術家だった彼女がマリウポリの「ピオニールの家」の壁にスポーツ選手や宇宙飛行士のフレスコ画を描いて、驚くような高給を得たことをよく話していました。食器セットや敷物、それからソーセージやパンを買うための行列さえも、困難の中にある人々の団結の象徴として、明るいものとして思い出していました。実際には、ほとんどの人がソーセージのための行列に加わる一方で、そうしなくていい人たちもいて、彼らはそれを誇示しなかっただけでした。

■石炭産業からの転換という「不都合な真実」

 人々は、不都合な真実を語る政治家を求めません。真実とは、石炭産業はとっくの昔に採算の見込みがなくなっていたということです。この地域の産業構造全体を転換し、ドンバスを再活性化するプロセスを開始する必要がありました。それ以外に選択肢はなかった。しかし住民が、奪われるよりは慰められる方が好きだったことは想像に難くありません。オーウェルの反ユートピア小説『1984』には、次のような一節があります。「(ウィンストンは)次にオブライエンが言うであろうことが分かった。党が…権力を得ようとするのは、大衆が脆弱で、自由に耐えることも真実に向きあうこともできない臆病な生き物であり、彼らより強い者によって支配され体系的に騙されなければならないからなのだ。その選択は自由と幸福の間にあり、大部分の人間にとって幸福のほうが重要なのだ…」。このセリフの意味を十分に感じ取ることができるのは、ドンバスで生まれた人々かもしれません。

 ソ連時代のレトリックはすぐに復活しましたが、生活水準の向上は遅々として進みませんでした。住民は、現実の生活よりも「豊かな生活」という神話に満足していました。私の隣人たちは、団地の踊り場で、リナト・アフメトフ(ドンバスのオリガルヒで、この地域のボス)が建てた美しいスタジアムや、サッカーの欧州選手権大会が私たちの街で開催されることがどれほど素晴らしいかを誇らしげに語りました。彼らは心から喜んでいましたが、試合のチケットを買うお金もありませんでした。スタジアムを遠くから眺めるだけで、その建設費用を誰が負担したのかも知りませんでした。

 ドンバスで評判の良い政治勢力は皆、「ロシアとの結合」ということだけを繰り返し約束しました。ソビエト連邦への回帰を約束する者はいませんでしたが、そこで描かれるロシアは、失われたソビエトの楽園そのままでした。この「おとぎの国のロシア」では、誰もが平等で、祖国と最高指導者を愛し、腐敗した西側を軽蔑し、正教会のモスクワ総主教区(本当の総主教区)に属していました。最も重要なことは、このロシアではすべてが安定しており、(マイダン革命のような)ショックや不必要な苦労のない普通の生活が営まれていたことです。もちろん、政府や教会を嘲笑し、ある種の自由を要求する「寄生虫」もいましたが、神のご加護によって、彼らはすぐに健全な社会から隔離されるのです…。

 正直で素朴な人びとは、このソ連のカリカチュアを信じていました。彼らは、この露骨なまがい物を額面通りに受け取り、それを国家的理念として崇めたのです。ツァーリ崇拝、スターリン主義、民族ボリシェヴィズム、ユーラシア主義、第二次世界大戦の勝利崇拝、そして正教の、想像を絶するほどグロテスクなアマルガム(混合)に対して、後にドネツクの人々の誠実な信頼を裏切ることになるプーチンの名をもって飾ったのです。

■真実は耳に痛いが、魂を浄化してくれる

 私は多くの疑問に直面しています。第一に、20年来の「ルースキー・ミール(ロシアの世界)」という約束が実現しなかった場合、騙された人たちはどうやって生きていけばよいのでしょうか。第二に、そのような「おとぎ話」を信じなかった人たちは、彼らと一緒にどうやって生きていけばよいのでしょうか。私はどうしたら故郷に帰れるのでしょうか。何しろ、かつて私のアパートの入り口の外で待ち構えて、面白半分に私を脅したり侮辱したりしていた男の子たちが、今ではマシンガンを手に大人の楽しみ方をしているのだから。いつになったら疑問の答えが見つかるのか。いつになったら自分の家で暮らせるようになるのか。かくまってくれる親切な人を探す旅に出ずにすむようになるのか。誰にも分からないのです。今どき誰もタクシーに乗らず、花は(戦争の犠牲者の)葬式用にしか買わないようになってしまった荒廃したドネツクで、両親が再び仕事を見つけるのは、いつになるのでしょうか。

 アイデンティティは、私たちに高い代償を支払わせました。何千もの人びとが殺されました。その理由の一つは、この国に住むロシア語話者たちがもっと胸を張って「私たちはウクライナ人だ」と言えるようになるためでした。ウクライナ語を話すようになりたいのではなく、自由になりたいのです。人々が真実を知ろうとせず、心地よい無知のなかに止まりたいと思っているとき、彼らは自由ではありません。考え始めたとき、人びとは自由になります。私は、ウクライナが真実の探求において自由になってほしいと思います。真実はしばしば耳に痛いが、しかし魂を浄化してくれるからです。(終)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?