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資料:ドンバスに生まれ育って【上】――ウクライナ「社会運動」活動家ハンナ・ペレコーダが語る故郷の喪失

当noteからの紹介

 以下は、ウクライナの民主的左翼グループ「社会運動」活動家ハンナ・ペレコーダ(写真)が2014年8月11日に発表した文章を機械翻訳したものである。ロシア語原文は「Свобода и социальная идентичность 自由と社会的アイデンティティについて」(http://openleft.ru/?p=3757)、英語訳は「Freedom and Social Identity in the Donbas」(https://therussianreader.com/2014/08/16/hanna-perekhoda-freedom-and-social-identity-in-the-donbas/

 ハンナ・ペレコーダはウクライナの民主的左翼グループ「社会運動」活動家で、ウクライナ東部ドネツク州のドネツク市生まれ。この文章を発表した2014年当時は、スイス・ローザンヌ大学に学ぶ20歳ほどの大学生だった。現在は同大学の博士課程。専門はロシア・ウクライナ関係史、ロシア帝国史、ナショナリズムなど。特にロシア革命期のウクライナにおけるボルシェビキの研究。活動家としては、ウクライナ「社会運動」メンバーであるとともに、反資本主義・フェミニズム・エコ社会主義の政治組織「SolidaritéS」で活動している。

 「ドンバス」とは、ウクライナ東部のドネツク州、ルハンスク州のこと。19世紀に炭鉱が開発されて以降、ロシア系住民が多く居住するようになった。炭鉱と鉄鋼を中心とした工業地帯として、かつてはウクライナ経済を牽引していたが、ソ連崩壊後は、品質的に世界的な水準に達しないこともあり、それらは斜陽化していった。2014年2月に「マイダン革命」でヤヌコビッチ政権が崩壊すると、ロシアとの統合を求める分離主義運動が起こり、ロシアの軍事的介入で「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」の独立が宣言されるに至った。ただし、ペレコーダも文中で示唆しているが、この地域でさえも明確な分離主義者が多数派を占めたことはなく、分離運動の担い手は社会のマージナルな層とロシアからの武装民兵であった。同年8月末以降は、ロシア正規軍が介入した。22年2月21日、ロシアは両人民共和国を国家承認。3日後にはウクライナに全面侵攻し、ドンバスは同年9月末にロシア領への併合が宣言された。

 この文章が書かれた2014年8月は、分離主義者・ロシア民兵とウクライナ軍が深刻な戦闘を続けていた時期である。この月の末には、ロシア正規軍が投入され、優勢だったウクライナ軍は押し返されることになる。ペレコーダの文章には、今や戦場となってしまった故郷ドンバスへの愛惜と喪失の痛みとともに、鋭い社会的分析と観察に満ちており、大学生が書いたものとは思えないほどの優れた内容になっている。

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ドンバスに生まれ育って【上】 ハンナ・ペレコーダ

共産主義の廃墟に生きた両親

「過去は未来を引っ張る機関車である。時にはそれは他人の過去を起動させる。あなたは過去に戻り、すでに消えてしまったものだけを見ます。そして、列車を降りるには切符が必要です。あなたはそれを手に持っている。でも、それを誰に見せるのですか?」
   ーーーヴィクトル・ペレーヴィン『Жёлтая стрела(黄色い矢印)』

 私はドネツクの家に生まれた。その家の本棚には、溶鉱炉の建設技師と芸術家の2つの卒業証書がありました。この卒業証書の持ち主は、満たされなかった共産主義の廃墟の上に、必死に自分たちの幸せを築き上げようとしました。しかし、一時的な仕事と思われたものが、継続的な職業となり、今では父は長年の経験を持つタクシー運転手、母は15年前から花を売っています。幸福の探求は私に託されました。稼いだお金は貯蓄に回され、私は外国語を勉強して、高校を卒業し、キーウの大学に入り、そしてヨーロッパに留学しました。自ら選んだ亡命生活を送る今、自分がどこから来たのか、そしてどうやって生きていくのかを、考える時が来ました。

 私が 18 年間暮らし、友人や家族が今も住んでいるドンバスは、現在、ソ連崩壊後の社会の集団ヒステリーの矢面に立たされています。私はそこに、私の国の同胞の心の中で吹き荒れるあらゆる葛藤の結果を見ています。何が起こったのかを分析することは、自分自身を理解する方法です。記憶、欲望、薄っぺらな観念は、新たな感情が湧き上がるたびに崩れ去ってしまいます。

 最も困難な葛藤と再考のなかで、フランスの作家アミン・マアルーフがエッセイ「致命的なアイデンティティ」の中でこのテーマについて書いたことを思い出します。
「アイデンティティを細分化することはできません。半分や3つに分割することも、明確に定義された境界線を引くこともできません。私には複数のアイデンティティがあるのではなく、そのユニークなプロポーションを形成するすべての要素から構成される一つのアイデンティティしかありません」
 しかしながら、私は自分のアイデンティティに関わるトラブルを抱えています。そのなかに利点や肯定的な側面を見出だすことは、私自身のサバイバルと心の平安の問題でもあるのです。

■ドネツクはプロレタリアートの都市だった

 今日、不条理と現実の間の境界線はとうの昔に消え去ってしまい、人びとは、何が起こったのか、その原因を理解することだけにエネルギーのすべてを費やしています。例えば、ウクライナ東部におけるマージナルなアイデアにすぎなかった分離主義運動が、なぜ数か月で世界の注目を集める政治的・軍事的紛争の原因へと変貌したのでしょうか? なぜその戦線はドネツク州とルハンシク州の境界に沿って走っているのでしょうか? この線はいったい、何を区切っているのでしょうか? ロシアとウクライナ? アジアとヨーロッパ? ソ連と西側資本主義? さまざまな国の優れた人びとが、ずっとこの問題を考えてきました。ウクライナでは特にそうです。しかしどう考えても、この状況は予想外のものでした。私にとっても、そして私が知るドネツクの人々すべてにとっても、それが驚きであったという事実は否定しようがありません。

 ドネツクは、民族的アイデンティティを持たずとも常に快適に暮らすことができた都市です。それは移民、元囚人、そして自分の労働力だけを所有する完全に貧しいプロレタリアートの都市なのです。その中心は、決して教会や市庁舎ではなかったし、都市計画には、集会や祝典のための公共の広場は含まれていませんでした。ドネツクの中心は工場でした。それは恐ろしく、危険で、予測不可能であると同時に、必要であり、寛大で、そして家父長的な存在でした。工場と鉱山は偶像であり、タブーでもありました。それは人びとに生命を与え、また奪う権利を持っていました。

 人々の自己定義は、主に「私有財産」の原則に基づいており、これらの概念がボリシェヴィキによって採用されるずっと前に、プロレタリア化された都市と農村とを明確に区別していました。両者は精神的にも文化的にも、経済的にも、都市住民とは正反対で、おまけに農村の人びとはウクライナ語を話していました。現在、ウクライナ語を話す人々がこの地域に住んでいたということを知る人はほとんどいません(たいていは、その事実を否定するだけです)。この記憶喪失の理由は主に、農村集団化政策、「成功による幻惑」(注:スターリンが一時的にとった集団化の行き過ぎ是正政策)、そして 1932 年から 1933 年の飢餓(注:ホロドモールのこと)にあります。ドネツク州のチチェリーノ村に住む私の曾祖母は、11人家族の3人の生存者の一人でした。彼女が初めて自分の体験について語ったのは90歳の時で、村議会の建物からハンマーと鎌が永久に撤去され、黄色と青の旗(注:ウクライナ国旗)が掲げられて数年後のことでした。孫やひ孫たちの世代になって初めて話しました。彼女は処刑やカニバリズム(人肉食)について語り、そして「スターリンが知っていたら」というフレーズで話を締めくくりました。

 子どもや両親を飢餓によって亡くした人々が、「スターリンが知っていたらそんなことは起こらなかったはずだ」と言うのです。この犯罪を最も激しく否定しているのが、人為的飢餓の影響を最も受けた地域の人びとであるということは、考えるだけで恐ろしいことです。ただし、私はこの人為的飢餓が「ウクライナ民族に対するジェノサイドだった」と主張するウクライナの政治家を支持するつもりはありません。当時ウクライナ語を話す人々は、必ずしも自分たちをウクライナ民族だとは思っていませんでした。しかしこの土地は自分たちのものであるとは感じており、最後の最後までそれを守り続けました。曾祖母の家族が苦しんだのは、ウクライナ語を話していたためではなく、自分たちの黒い土(注:ウクライナ特有の肥沃な土)と牛を手放したくなかったためです。この土地で新しく「ソビエト人」を育てるのは簡単だったし、祖父にロシア語を話すよう説得し、強大な国とは異質な方言でしゃべる無教養な母親を恥じるように仕向けるのは難しいことではなかったのです。

■ロシア語家庭に育ってウクライナ語の学校へ

 私はロシア語を話す家庭に生まれましたが、近くにあったという理由だけで、ウクライナ語の学校に通い、勉強しました(当時人口100万人の都市に15校あったうちの1校)。今では、そこの先生方が「二重の」アイデンティティを持っていたこと、私たちに批判的に考える能力を与え、さまざまな「民族衣装」を「試着」させてくれたことに感謝しています。そこでの歴史の授業のおかげで、私にとって「バンデラ」は罵り言葉ではなく、かといって導きの星でもありません(注:バンデラは20世紀前半の西部の右翼的な民族運動指導者。西部では崇拝される一方、ロシアに親和的な人々にとっては悪しきウクライナ民族主義の象徴として罵りの言葉に使われる)。私は英雄や理想を選ぶという問題に直面したことは一度もありませんでした。なぜなら、私の未来は祖国の過去に依存すべきではないと感じていたし、そのつもりもなかったからです。「国」という問題が浮かび上がることもなかった。私はいつも「私たちが失った」ロシアを愛していました。しかし現代のロシアはむしろ同情と嫌悪感を引き起こすものだったので、「充分には民主主義ではないが、それでもやはり民主主義である」という刺繍が施されたウクライナの衣装の方を試着せざるを得なくなりました(注:「刺繍」とはウクライナ民族を象徴するヴィシヴァンカのこと)。

 私が刺繍入りのシャツを着て、リヴィウでロシア語を話し、キーウでフランス語を学び、ヨーロッパの学生たちに混じって自分のプロレタリア的出自を主張している間、ドンバスは独自の時間を刻んでいました。ウクライナで革命(マイダン革命)が始まったとき、私は再び積極的に自分のアイデンティティを再構築し、ジュネーブの国連の建物の外でデモをするために同胞を組織し、私のウクライナへの愛について熱烈な演説をしました。この国のために自分が必要とされていると感じ、また、この国のために命を危険にさらしている人々に対して申し訳ない気持ちを感じていました。

 そんなある日、ドネツクの友人たちから動画が送られてきました。数百人の人びとが、外国の国旗を掲げ、外国の名前を叫びながらイリイチ通りを行進している動画です。そこは私が生まれ育ち、社会の階段を上がっていった街です。動画のなかで、バス停に立つ女性がウクライナのパスポートを掲げました。すると、行進の人びとは女性からパスポートを奪い、暴力的に罵りました。私は、事実や調査結果といったデータを駆使して、なぜこれが起こったのかを分析することはできますが、こんなことが自分の街で起きているという事実を、どうしても受け入れられませんでした。

(以下、資料:ドンバスに生まれ育って【下】――ウクライナ「社会運動」活動家ハンナ・ペレコーダが故郷を語る|ウクライナの社会運動に連帯の募金を送ろう!【送金を終了しました】に続く)


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