川上未映子『ヘヴン』
川上未映子は日本を代表する作家の一人で、私自身も川上未映子はお気に入りの作家の1人だ。私が初めて読んだ川上未映子の作品は『すべて真夜中の恋人たち』だ。とてもリーダビリティーが高い文章で独特のリズム感があり、読んでいて心地がよく、どんどんと引き込まれていったのを覚えている。世の中に心地の良い文章を書く作家は沢山いるが、その誰とも似ても似つかない何かがあり、川上未映子という作家が私の中で何か他の作家とは違う突出したものがあるような気がしてならなかった。この言葉にならない何か重要なものを求めて川上未映子の他の作品も読みたいと思い出会ったのが『ヘヴン』だ。
この物語は耐え難いほどのいじめを受けている中学生の男性主人公が、なされるがままにいじめに翻弄されながらも、この不条理とも思えるような世界に対しての向き合い方を見つけ出していくお話だ。主人公は基本的にすべてに対して受け身である。どんなに激しい嫌がらせをされても抵抗するわけでもなく、親にも先生にも相談せず、ただただ波風を立てないように息を潜めて一日が終わるのを待っているだけだ。一方、同じクラスで同様にいじめにあっている女性コジマと密かに手紙のやり取りを通じて親しくなる。コジマは自分と同じ境遇にある主人公にシンパシーを感じている。主人公にとってもコジマの存在が大きなものとなってくるが、物語の後半でいじめに対する向き合い方をめぐって2人はすれ違っていく。
コジマは身なりが汚く、貧乏に見えるということがきっかけでいじめを受けている。コジマの両親は離婚しており、前の父親はとても貧乏であったがコジマはとても愛していた。一方でいまの家庭は裕福ではあるがあまり居心地のよさを感じていない。コジマにとっては前の父親と一緒にいたことの「しるし」としてあえて汚い身なりをしている。コジマはいま受けているいじめについて必ず何らかの意味があると考える。どんなに苦しいこともつらいこともそれを耐え抜いた人でないと辿りつけないような場所があると信じているからだ。コジマはどんなにきついいじめを受けてもそれに面と向かって抵抗することなく全てを受け入れる。そして、主人公が斜視であること、それが原因でいじめを受けていることがコジマにとっての「しるし」と同じ意味を持つと考え、一緒にこの苦痛を耐えぬこうと主人公に寄り添っていく。
そんなコジマとは全く異なる考えを持つ百瀬といういじめグループの一人と主人公は偶然お互いの考えをぶつけ合う機会に巡りあう。主人公は百瀬に対してこんな無意味ないじめはやめるべきだと主張するが、百瀬にあっさり論破されてしまう。百瀬は区別のない人間なんてどこにもいないと主張する。結局だれでも自分の都合、欲望のままに無意味に人に暴力をふるうが、自分が他人に暴力をふるわれることは許容できない。誰しもがそんなダブルスタンダードで物事の価値判断を行っている。ただ重要なのが、できる、できないの違いだ。いじめられるのが嫌なら、やり返せばいい。そのすきはいくらでもあった。ただお前はそれができないだけだと主人公に言い放つ。
苦しいことや悲しいことも受け入れ耐え抜くのが本当の強さであり、そこにはきっと何か意味があるのだと信じるコジマ。そのような意味など存在せず、存在しないからこそそのような意味は弱者が捏造したものにすぎないと考える百瀬。斜視である自分。いつ終わるか分からない虐め。自殺願望。そのような自分を取り巻く様々なものがもみくちゃになりクライマックスを迎える。
最終的にいろいろあって主人公はコジマ的な意味によっていじめに向き合うのでも、百瀬のように全くの無意味を受け入れるのでもどちらでもない決断を選び取った。それは本当に決断といえるような主体的な判断ではなく、それよりももっとあっさりしたものだった。それでも私には主人公の在り方が、周りになすがままに翻弄されつつ振り回されながらも、それでも正しい着地地点に無事にたどりついたように思えた。私達はともすると、大きな問題や価値観に振り回され足元のことが見えなくなりがちである。自分はこうでなければならないとか、こう行動するのが正しいというような形で自分自身を正当化する為の過度な意味を求めたり、別に意味なんてないのだから欲望のままやりたいようにやればいいというように開き直ったりしてしまう。本当は100人いれば100通りの向き合い方があり、100通りの到達地点がある。それは決してゴールではなく到達地点であり、次への出発地点だ。それは色々な悲しいことや辛いこと、価値観などに振り回されながらも自分の力でなんとかたどりつける場所だと思う。何が善で何が悪なのか。誰が強く誰が弱いのか。でも、大切なのはそんなことじゃないのだ。そういった感情にこの小説はさせてくれた。