「サンドバッグ」2023.4.19の日記
・昨日は久々に知人と作業通話をした。作業通話における僕の主な目的は作業を進めることなのだけれど、通話相手が日常で感じた違和感や日頃の鬱憤の聞き手に回ることが多い。毎回心の中で「作業せい!」と思うのだけれどそういう気持ちを堪えながら大体サンドバッグになる。
・基本的にこの手の違和感や鬱憤は個人の価値観や体験に根ざしていることが多いのでなかなか同調することは難しい。「そうなんだね」「そういう価値観もあるよね」という形でのらりくらりと躱していたのだけれど、違う価値観を持った他者と認識された上にその差異について無茶苦茶詰問され、議論の交通整理をしつつ午前4時までやりあう羽目になった。作業せい!
・その議論の中で、「普通」という言葉を相手の意見を否定する論拠として使われて、ついカチンと来てしまった。
・「普通」という言葉を使用するとき「1.特定の母集団における、2.特定の尺度で、評価した場合の多数派」という意味に対して注意を払うべきで、そこを意識せずに「普通」という言葉を使うのは物凄く危険だ。自身が感じ取れなかった質感や感情を踏みにじることに繋がりかねない。
・特に相手の想定する母集団と評価尺度が不明瞭な状態で、全体(世間や常識とも言われることもある)における多数少数の理屈を当てはめて評価するのは余りに強引だ。話者が全体として定義するものでさえ、真の全体の部分集合にしか過ぎないうえ、そこで評価に用いる尺度だって恣意的に設定されたものだ。「普通」を振りかざした時点で、他者の中に息づく固有なリアリティを捨象してしまう。
・もしも「普通」「常識」という言葉で他者に丸め込まれそうになったら、相手の想定する母集団や採択されている評価の尺度が何なのか、その評価関数とサンプルを有するゲームルールに自身が乗る必要があるのか、その過程で自身が感じる固有の質感を握りつぶすことにならないか、慎重に検討する必要がある。
・というか、「普通」を騙って強引な解決を目論む相手には他者に寄り添う気など更々ないので、そもそも真っ当には話を聞く必要さえないかもしれない。少なくとも僕の中で「普通」という言葉を押し付けてくる輩に対する信用はその程度しかない。
・サンドバックではなくサンドバッグであること、この日記を書きながら初めて気づいた。未だにベットなのがベッドなのかも分からない。濁点って結構見逃しがち。