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サマヨエル・バケット
世界の下手から男一が歩いてくる。お気に入りの服を着ている。
彼は、とある苦しみを抱えながら砂利道を歩いているのだが、それは彼自身も気づかない苦痛であるし私たちにもそれは伝わらない。実際にその苦痛があるのか誰にも確かめようがないのでこのことは誰かの嘘かもしれない。
川の土手沿いにあるパン屋で、バケットを注文する。パン屋がなければコンビニエンスストアでも良い。土手がなければ住宅街でも良い。
川がなければ山でも良い。ともかく彼はそこに在る。
バケットを左脇に抱えて、店を出ると男二とすれ違う。ここで話しかけてみても良いし、赤の他人なので無視しても良い。
男一はバケットを齧る。芳醇な発酵した小麦の香りに酔う。二つに分かれたバケットは何かの肉のようにふっくらとしている。母の乳房のようだと思い、
男一 「母の乳房のようだ」
と1人ごつ。それほど豊かで懐かしく艶やかなパンであった。
男二は世界の上手側にある劇場の下手から全裸で登場した。観客席はすっからかんで一人もいない。照明も付いておらず男二の手に握られた長い蝋燭のみが灯されている。
音楽もなく嫌になるほどの無音が続く。
舞台の袖にも誰もいない。
彼は誰もいない劇場でバレエを踊ったり、暗黒舞踏に興じたりしている。
彼には彼独自の苦しみがあるのだが、スタッフも観客もいないのだから誰にも分からなかった。
男一はバケットに飽きて半分食べ切ったところで残りを路上に捨ててしまった。
飽きちゃったけど結構美味しかったしこういう幸せを感じながら生きていきたいなぁと心底思う。とてもスッキリした面持ちでまた砂利道を歩いていく。
男二はバレエをまだ踊っており、ピルエットを無限に回り続けているのだが、中途で涙が一筋垂れて円を描く。キラキラ光って見える。
捨てられたバケットは日を越すごとに腐っていき、蟻が一口ずつちぎり巣へ運んでいった。最初は白いカビが焦茶色の皮を覆ったのだが、だんだんと緑色のカビが覆っていった。
男二は絶命した。過労死である。しかし生きているころよりもよく回っているし美しい放物線を
描くピルエットなのだが誰も見ていない。
蝋燭はとっくの昔に絶えた。
男一は世界の下手へ消えていった。
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