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麻雀新規層獲得のヒント 〜ストリート麻雀(札幌チカホ)を訪れてみて〜

(この記事は3554字、約7分で読めます)

こんにちは、夕灘ゆうなだです。

11月中に札幌地下歩行空間で開催していた「ストリート麻雀」はご存知でしょうか?期間中に地下歩行空間を通行した方であれば、目にしたかも知れません

具体的にはハートランドさん近くのシタッテそば(シタッテに蕎麦屋は無く~…)、クリスピークリームドーナツより南側のエリアに、1つだけ麻雀卓が設置されており、壁には「ストリート麻雀」と紙が張り出されていました

出展者がいらっしゃる日に、歩行者は自由にここで東風戦を打つことができるというストリート・フリースタイルで、開催日は常に対局者と観戦者が絶えなかったようです

今回の記事では、「ストリート麻雀」がどういった展示だったのか紹介すると共に、実際にこの「ストリート麻雀」に参加して感じたことを書き連ねてみました

1.展示企画・出展者について

今回の展示はどうやら「SAPPORO ART STAGE 2024」の企画の一環です。「ART STREET」のチ・カ・ホ会場の出展になります。ホームページは以下のリンクになります

「アートを言葉にする」をテーマに数々の出展をするなか、「受動的主体性(仮)」と題した企画がこの「ストリート麻雀」です

2.展示内容について

出展者へインタビューしたわけではありませんが、コンセプトは遊技ではなく、「境界線」だとか「共同」といったものがキーワードになります。噛み砕くと「人(集団)と人(集団)との境界」でしょうか。展示物は麻雀卓だけではなく、何枚かのコピー用紙が張り出され、そこにルールの説明や、出展概念の説明がなされています。コンセプトにまつわるヒントが、そこに記述されていました

ここでの麻雀卓は遊技の「道具」でありながら出展物である「アート」としても捉えることができます。あるいは「実験場」とも言えるでしょう。ただ、「アート」あるいは「実験場」として、麻雀卓はその一部に過ぎず、遊技者と観戦者、それを横切る歩行者の全てをひっくるめて完成する「作品」となっています

下の引用分は、展示ポスターを転記したものになります。最後の2段落が、ストリート麻雀に直接言及した部分になります。
(iPhoneの自動読み取りから文字起こしをしているから、多少の誤脱字はご容赦ください)

受動的主体
小堀 秀平
共同とはなんだろう?かつて、国境という境界線が共同の根拠となり、ナショナリズム的連帯を生み出してきました。対して、現代のグローバル化や新自由主義的潮流の中では境界は交流と流通の障壁とみなされ異種混合性や流動性が称場されています。強固な境界線によって発生した人種侵害や世界戦争の反省を考えると、ポスト近代において、その強固な境界線は除去されるべきものであり、流動性や異種混合的な物が称揚されたことは当然の帰結であるともいえます。
では、今現在境界線が喫味になっている状態で謳われているような「共同」とは何に基づいているのでしょうか?
昨今、開放の動きは脱領域的な「共同」に対して、跳ね返りの動きを見せています。国際政治的にはEU離脱やトランプ政権のナショナリズムがそうかもしれません。彼らは解放性の強い世界に対して、明確な境界線をもう一度引き直した、といえるでしょう。自由な言論の場として期待され、民衆の手に解放された情報媒体としてのSNSにおいては、言論統制の権力は大衆に引き継がれ、抑圧と論破の場になっています。解放性による無摩擦空間は、人々はそれに対する防反応として、返って異質性を受け入れない不寛容が延った、言い換えるならば、異なるモノ同士が結びつくための境界の除去は返って壁を作り出したように思うのです。
さらにいうならば、境界線の除去が現にある支配一被支配の不均等な関係性に対して、何をもって異議を申し立てるべきか見えにくくしていると感じてしまいます。明確な境界線は人権侵害という悲修な事件をもたらしたと同時に、劣ったとされた民族たちはその境界を拠り所として、自分たちの不遇な立場を表明することができた側面もあります。近代の硬直性を乗り越えようとした種々の活動が、異種混合性によってアフリカ奥地でコカコーラを飲みながら、ジャスティンビーバーを聴くことを称揚したわけではないはずです。彼らの思考を引き継ぎながらも新しい境界について考える必要がないでしょうか?
さて、麻雀は向かい合った4人の間だけで行われる内向きなゲームです。この内向き性と路上空間で行われるという異質性は、歩行者との境界線を作り出すでしょう。外からは4人の共同体のようにも見えるでしょうが、内実としては点数の奪い合いという敵対関係があります。参加者はこの境界線の内部に入りながらも、一局を終了する毎に外部である歩行空間に戻っていきます。
この卓を囲う内部の4人の関係性とその4人と外部である歩行者の関係性から、内部の同質性に拠ることのない共同の可能性、そして、今あえて境界について語ることの意義を手牌の進行と押し引きのバランスに気を使いながら、考えたいのです。

展示ポスターより転載(下記写真)

この提議の後半部分に対して、参加者として感じたことを紹介しています。実際に参加したあとの私のツイートがこちらです

もう少し細分化して言葉にしてみます

3.参加してみて

難解な社会問題とも言える引用部の問題提起について、「解が無いから」「大学の専攻が物理だから」と理由にすらなっていない逃げ腰をきめつつ、自分に都合のいい麻雀にまつわる部分にだけフォーカスしてみます

さて、麻雀は向かい合った4人の間だけで行われる内向きなゲームです。この内向き性と路上空間で行われるという異質性は、歩行者との境界線を作り出すでしょう。

上記引用から抜粋

この予測は正しく、また、歩行者の中でも境界線のグラデーションを生み出しました。つまり、「ストリート麻雀を見向きもせず通り過ぎる人」と「ストリート麻雀を眺めながら歩き続ける人」と「ストリート麻雀を見る為に、一瞬でも歩みを止める人」はそれぞれ別の集団を形成しています

グラデーションという表現は、利用者から見た心理的距離からなされる感覚です。「眺めながら歩き続ける人」は利用者の共同体を観測しており、利用者はその観測を観測します。双方が立っている2つの異質空間の境界が溶け込みます。これは、「意識」のステージで利用者の空間へ入室した、と言えます

次のグラデーションとして、「歩みを止めた歩行者」は、「物体空間」のステージで利用者の空間に入室したと言えます

つまり、歩行者の中でも異なるステージにおいて境界を跨ぎ、利用者サイドへの入室が発生しています

この境界線のグラデーションとは、歩行者と歩行者との間に境界線を生み出した、とも言えます。予測では「利用者」と「歩行者」との間で境界線が生まれ共同体を二分すると思われていたかも知れませんが、私の考えでは3本の境界線によって4つの共同体に分けられたと考えることができるのです

外からは4人の共同体のようにも見えるでしょうが、内実としては点数の奪い合いという敵対関係があります。

上記引用から抜粋

この「ストリート麻雀」を介して容易に実感できる「境界線の向かい側の共同体には、外部から観測しがたい敵対関係がある」という状況は、日常や社会においてありふれたものであることに気が付きます

この卓を囲う内部の4人の関係性とその4人と外部である歩行者の関係性から、内部の同質性に拠ることのない共同の可能性…

上記引用から抜粋

同質性に拠らない共同、これは考え方によっては決して発生しづらいものではありません。熱が冷めた考え方ですが、つまりステージによって共同と境界線がそれぞれ存在していると見なせば、容易に「あるステージにおいては共同であり、あるステージにおいては共同ではない(ex.敵対関係)」とみなし、同質性に拠らない共同は成立するのではないでしょうか

また、利用者という共同体の中で対立構造を描くのは、同卓者同士の敵対関係に限りません。この「ストリート麻雀」は、人々が異なる共同に属することを強く実感させました

Xのポストで言及したように、「リアル麻雀が初めての方」「中麻しかやったことのない中国の方」「家族としか麻雀をしたことがない方」など、我々と異なる共同に属する方々が、「ストリート麻雀」の視覚的異質性に惹かれて、我々「リア麻経験者」の共同へ参入していく。
同卓者の不慣れな手つきを見れば、相手が元々違う共同に属することがわかります

とあるステージにおける五感的異質性が、自分の属する共同への入口を開く。このヒントは、麻雀に限らず言えることですが、たとえば集客において、見つめ直し検討するに値する発見なのではないでしょうか

(了)

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