私が生まれたくなかったと思う理由

人間は生まれるべきではない。という考えが反出生主義者を指すなら、私は間違いなく反出生主義者だ。
なぜ私が反出生主義者なのかをまとめてみようと思った。

私がこの話を友人にすると、希死念慮と一緒にされたり、鬱を疑われたりするので追記しておくと、今の精神状態は極めて良好だ。
今日は母とカフェに行ったし、元気にご飯も食べ、お風呂に入り、化粧をしている。

私がなぜ反出生主義者になったのかは自分で考える限り、少なくとも今の日本では、さらに言えば今の私の居住環境で言えば普通に生きている限り平和で「死」というものが日常生活と結びついていないからだと思う。もし今の生活が「死」と直結していたら私はこんなバカげたことを考えなかっただろう。

生き物には本能がある。それは「苦しさ」を回避するためのものである。それは生き物に与えられた義務である。
その義務は生き物によって多少異なるが、すべての生き物にその義務は存在する。
そして、その義務は行わなかった場合の罰を伴う。
その罰は誰も肩代わりすることができず、本人が必ず罰を受ける。
義務は生まれた瞬間から課され、その生き物が死ぬまで課され続ける。あるいは、死ぬことも義務の一つであるのかもしれない。
そして、罰を受けるのは自分がどのような状態でも、なにも考慮されず自分である。

そして、この義務は何とも無情なものである。
義務はその場の罰から逃れるための集団、すなわちマイナスをゼロにする作業でありその結果にはなにも生まない。
プラスになることはないのだ。
さらに言うとたいていの生き物は死なないという最大の義務を果たすことはできない。
クラゲか何かが永遠に生き続けることができるとか聞いたことがあるが、少なくとも人間にはできない。
この義務は生き物にとって最大の義務であり、そのほかの義務はこの死なないという義務を達成するためにあるといっても過言ではない。
その分、この死なないという義務にはそれ相応の罰がある。
ほとんどの生き物にとって死は恐ろしく、大きな苦痛を伴う。
この恐怖と苦痛が、死なないという義務に付随する罰で、生き物はこの果たせない義務を先延ばしにするだけなのだ。

だから、もし明日、自分が死ぬ可能性が高かったなら、私は最大限それを回避するだろう。
死ぬことは恐ろしく、苦しい。ならば、その恐怖から逃げ出すことに意味なんていらない。
一日でも一秒でもこの恐怖を先延ばしにできたらいいのだから、考える時間すらなく、ただ逃げ回るだけだろう。

しかし、現代の日本ではそうではない。
私はおおよそ健康的な20代なので、おそらく明日死ぬことはない。
もしかしたら、明日突然心臓麻痺で死ぬかもしれないし、隕石が降ってくるかもしれないが、それにおびえて命を一秒でも先延ばしにしなければと思うことはない。
この余裕がばかばかしい考えを生むのだ。

私は日々の小さな義務をこなしながら考える。
この義務はどこから来たのだろう。なぜ私は罰を受けなければならないのだろう。
余裕が生み出したこの疑問は私の人生を支配していく。

なぜ、私が義務を負うことになったのか。
それは簡単だ。
それはこの世に私が生まれたからなのだ。

少し抽象的な話になるが、私が存在していないとき、義務も存在しえない。
義務を課す存在がいないからだ。

しかし私は母と父によってこの世に生み出された。
この世に生み出されたその瞬間私は義務を課されたのだ。
そこに私の意思は存在しない。
すべては母と父の意思によって(場合によってはどちらか一方の場合もあるかもしれないが)私はこの世に生まれることになった。

存在する前の私に義務を負ってでも人生を生きたいかを聞くことは不可能である。
また、最初にも述べた通り、生み出した存在だからと言って罰を代わりに受けることはできない。
せいぜい、義務を果たす手助けができるくらいだ。

つまり、私は、私が義務を背負わされ、罰に苦しんでいるのは私を生み出した両親のせいだと考えているのだ。
しかも、両親は責任も取れない。
こんな私にとって都合の悪い話があっていいだろうか。

しかも、私が知っているほとんどの社会では生まれてこれたことは感謝するべきことであり、子供は両親に生んでくれてありがとうなのだ。
まったくもって理解ができない。

確かに、人生には楽しいと感じることもあるだろう。
生まれてきてよかったと思える瞬間もあるのかもしれない。
存在しなければその楽しさとは出会えなかったのかもしれない。
しかし、それはなくても苦しくはないのだ。
あったらなお良い。ただなくてもよい。それがプラスなのだ。
それに比べてマイナスはあったら苦しく、つらい。

しかも、人生の中でマイナスがあることは確定しているが、プラスがどれだけあるかはわからない。
存在しなかったらマイナスもプラスもない。そこにはなにもなく常にゼロだ。
では、存在しないほうが良いと考えるのは自然ではないだろうか。

最後に、私はこの考えを、ばかばかしい考えだと理解している。
しかし、同時に極めて理性的であり、正しい考えであるとも思っている。
私はなぜ子供を産むのか理解できないし、なぜ親に感謝しなければいけないかも理解できない。
ただ、全く想像できないからこそ自分とは異なる考えに触れてみたい。
触れたうえで考えが変わるならそれはそれでよいし、相手の考えはやはり理解できないと思うのもよいと思う。
年月が流れて、私がもっと大人になったら考えが変わって平然と子供を産む日が来るのかもしれない。
今日この時点での私の考えを残しておくことに意味があると思って書いた。

(親から暴力をうけていたとかそういう事情がないかぎり)現代で親に感謝しない、なんなら恨むということはたいていの人は道徳に反していると感じ、そう考えていることがばれた日には離れていく人が現れるかもしれない。
しかし、そう思うことにはちゃんと理由があり、恥ずべきことではない。
私はこれからも考えが変わるその日まで反出生主義者である。

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