ありがとう、こころのデパート
2024年4月6日。
アイドルグループ「クマリデパート」黄色担当 山乃メイ 卒業。
2020年2月28日、3期生として加入。
活動期間、1500日。
コロナ禍での活動を経て、日本武道館・日比谷野外大音楽堂というライブの聖地と呼ばれる場所でのワンマンを経験。
グループの成長期をメンバーの一人として支えてきた存在。
その人は、最高の推しだった。
はじめに
25000文字を超える長文になってしまったので、先に結論を置いておきます。
これは、
「アイドルオタクを生き方にした人間が、1人のアイドルと出逢い推して、最後には満ち足りて、その生き方から卒業する」
という話です。
ハッピーエンドなので、安心してご覧ください。
それでは、よろしくお願いします!
第一章「追想」
この章では、クマリデパートと山乃メイさんとの出逢いから卒業までをざっと振り返っていく。
それなりに長いので、興味ない方は第二章以降に飛んで欲しい。
(3年間それなりに応援してきた人間が書いている、という前提を把握してもらえれば充分です)
簡易年表
2020年10月18日「ギュウ農フェス 秋のSP2020」初観戦(記憶上)
2021年2月7日「七瀬マナ生誕2021」単独公演 初参加
2021年2月17日「6thワンマンライブ」ワンマン公演 初参加
2021年3月3日「たのしいつーまんVol.2」山乃メイ 初特典会
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2024年4月6日「6色の想い」卒業
ライブ観戦数:318本(トーク・特典会イベントを除く)
山乃メイ応援期間:1131日
グループとの出逢い
クマリデパートに惹かれたきっかけは、2020年12月26日「BAD TRIP Xmas RAVE!」
MIGMA SHELTER主催、ukkaとクマリデパートを交えたスリーマン。
2019年から通っていたukka、その中で出会ったMIGMA SHELTERが集うイベント。
ワクワクしながら千葉へ向かったことを今でも覚えている。
開催前までクマリデパートについては何も意識していなかった。
(1〜2回観戦していて、当時勝負曲だったシャダ―イクンを何となく覚えていた…ぐらい)
MIGMA SHELTERというグループは”サイケデリックトランス”というジャンルで揃えられた楽曲たちを、曲間なく1つの演奏のように繋いで披露するスタイル。
「ノンストップレイヴ」(彼らはライブのことをレイヴと称する)が特徴。
ukkaはそのスタイルをリスペクトしたのか、珍しくMC無しで45分間を駆け抜けていった。
いつも以上に熱量のあるステージに興奮していた。
その次に出てきたのがクマリデパートだった。
クリスマスに合わせて全員がサンタ衣装というキラキラな雰囲気。
笑顔全開な前半から、MCを挟んで雰囲気ある後半へ。
最後は少しだけ楽曲の良さを感じられたシャダーイクンで締め。
パフォーマンスの出来、楽曲の幅はもちろん、特にMCをしっかり入れて、自分たちのスタイルを全く崩さなかったことが強く印象に残った。
MIGMA SHELTERはそのスタイル故、ツーマンやスリーマンなどの場合、共演者もノンストップライブで対応することが結構多かった。
この時のukkaはまさにそうで、相手の土俵で勝負するというやり方。
惨敗するグループもある中、ukkaは堂々と渡り合っていた。
ただクマリデパートはそうではなかった。
主催グループやイベント内容をリスペクトしながらも自身のスタイルを決して崩さなかった。
その上で前出番のukkaから受け取ったバトンをきっちりMIGMA SHELTERに渡していた。
「このグループは普通の王道グループとは違うっぽい…?」
この日を境にして、クマリデパートに興味を持ち始め、翌年1月「NPP2021」などの対バンを経て、単独公演(生誕祭)やワンマン公演に参加するようになっていく。
山乃メイとの出逢い…の前に
ひとつ、告白したい。
実はクマリで初めて特典会に行ったのは、山乃メイさんではなく早桜ニコさんだった。
記憶が朧気だけど、恐らく2021年2月4日「EVOLUTION POP! Vol.45」か、2月7日「早桜ニコ生誕2021」だったと思う。
なので、黄色以外に唯一水色の「ク」Tだけ持っていたりする。
「リーダー」「黒髪ボブ」といった属性に弱く、また当時からエネルギーと魅力に溢れていた彼女に行くのは必然のようなものであった。
…のだけれど。
山乃メイとの出逢い
単独公演(七瀬マナ生誕2021、早桜ニコ生誕2021)とワンマン(6th)を経験した結果、「本気で通う価値がある」「主現場にする」と決めた。
この頃はライブアイドルにハマって約2年ほど。
実はそれまで”推し”という存在を作ることがなかった。
グループ全体を応援しながら、その中で軸となる人を作る…ぐらいの感覚。
推し方としては「箱(グループ)>個(メンバー)」という形。
いわゆる”箱推し”として活動してきた。
なので、それまで通っていたukkaを始めとするスターダストプラネットのグループや虹のコンキスタドールに推しはいなかった。
(各人それぞれの定義があるだろうけど、自身としては”推し”という認識ではなかった)
「そろそろ個推しもやってみるか…」と思い始めたのは2020年夏頃。
初めにトライしたのは、2020年9月末にスタートしたtipToe.2期だった。
グループコンセプトである「3年間限定」の言葉に惹かれた。
3年という区切りがあれば頑張れるかもしれない…と考えた。
だが、それも上手くいかなかった。
推しになるかもしれなかった人は3年を待たず数ヶ月で脱退してしまった。
結局、2020年に推しを作ることは叶わなかった。
「今年こそは推しを作るぞ!」という決意を抱いて迎えた2021年。
そのタイミングで惹かれたクマリデパート。
「クマリで”誰を”推しとするのか?」
今後のアイドルオタク人生に多大な影響を与えることになる質問。
考えた末に出した答えは「3期のどちらか」だった。
クマリデパートのデビューは、2016年4月。
この時点で、既に5年間弱の歴史があった。
歴史は振り返ることはできるけど、体験することはできない。
それは仕方ないにせよ、寂しいことではある。
その点、昨年加入した3期であれば立場は近い。
1期と2期が経験したことも、初経験となることもあるだろう。
その時は自分も一緒に喜べるに違いない。
そうして、3期の2人にターゲットを絞った。
そんな中、2021年2月21日「山乃メイ生誕2021」が開催された。
新宿MARZでの開催。
同期の七瀬さんが(早桜さんと同日開催だったこともあり)O-WESTでの開催されたことに比べて、ずいぶんな差があるな…と思った気がする。
記憶があいまいだけど(あいまいな理由でもあるけど)ここですごく刺さったわけではなかった。
ただ、自身もラーメン好きだったので、その方向で興味を持った。
この時点で「どちらかといえば、山乃メイさんかな」となり、翌月3月3日「たのしいつーまんVol.2」で特典会に初参加。
こうして、かなり打算的な形で山乃メイさんを応援する日々が始まった。
”推し”になった瞬間
この答えは非常に難しい。
今でこそ「推しと呼ぶ基準」が自分の中で明確にある。
ただ、その基準は後に推しと呼ぶアイドルたちとの交流を積み重ねた結果として構築されたもの。
山乃さんについては「明確な時期はようわからん」というのが事実である。
それもヒドい話なので、ポイントを探すために過去を振り返ることにした。
幸いなことに2021年4月から全現場の記録をnoteにつけていた。
今、それが活かされる時が来たのだ!
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・
・
うーん、全然わからん。
事実ばかりで、山乃さんとの関係性についての記載がほとんどない。
もっと感情をあらわにして書いておくべきだった…
それでも山乃さんを応援し始めてから2ヶ月ぐらいで「ゴイリョクタラズ」の大人びた表情に惹かれたり、3期初の八木橋百貨店でのライブに喜んでいたりと楽しそうな感じは記事からも見受けられる。
2021年5月末「@JAM 2021」では、初披露された限界無限大ケン%で落ちサビ始動に感動し、その後の対バンでは、
と記載しているので、この時点で”山乃メイ = 推し”と自認していた模様。
総合すると、2021年2月「6thワンマンライブ」から同年6月12日「7thワンマンライブ」の間に推しとして確立していったのだと思われる。
「7thワンマンライブ」翌日のアフターライブでの特典会で、
という会話をしており、早々に馴染んでいたのかなと思う。
なお、「7thワンマンライブ」で初披露されたFurniture Girl(Furniture Girl衣装)で完全にやられた可能性があるが、それについては後述する。
推しとなってからの日々
ここからは細かく書き表すことが難しい。
毎日の出来事を通して、少しずつ関係性が深まっていたからだ。
その中でも特筆したいものをいくつか記載したい。
<全国ツアー2022&日本武道館>
クマリとの思い出を挙げるなら、この2つのイベントは絶対に外せない。
2022年8月28日「@JAM EXPO 2022」3日目。
メインステージでのライブ中、日本武道館公演が発表された。
ライブアイドルの世界に飛び込んで以降、どんなライブでも全組観ることを信条としていた自分が、あまりの喜びと興奮に初めて、その後のライブを放棄して他ファンと一緒に会場を出てお祝い&乾杯した。
「応援しているグループが日本武道館に立つ」
それは夢のような出来事だった。
それと同時に発表された全国ツアー。
日本武道館へつながっていく道。
発表された時点で全公演に参戦することを決めた。
日本武道館公演へ向けて、クマリデパートは走り出した。
同時に、グループを取り巻く環境が変わっていった。
出場イベントや対バン相手の変化、レギュレーション改定、全国ツアーによるホーム東京でのライブ不在、新曲の評判など。
全国ツアーに参加しながら、その変化をまざまざと実感していた。
「クマリデパートについていくのか、いかないのか」
大きな分かれ道が提示され、自分は一緒に行くことにした。
2022年秋はクマリデパートと山乃さんと一緒に全国を飛び回った。
その分、クマリ以外のグループを観る機会、山乃さん以外の推しと話す機会がグッと減った。
仲が良かったファンとも距離を感じることが増えた。
その一方、ツアーを通して新たに知り合うファンも増えた。
今振り返っても、グループにとっての過渡期だったと思う。
2022年9月から2023年1月まで、全国13箇所をまわった。
この規模のツアーを全通するのはライブアイドルを趣味にしてから初めての経験で、終わった後の充実感や達成感はものすごかった。
その勢いで他イベント(Zepp ツーマン3Daysや惑星探索ツアーなど)にも参加。
無事に日本武道館を迎えることができ「推しが武道館いってくれたら、ただただ嬉しくて誇らしい」ということを知った。
自身のアイドルオタク人生から見ても、大きな分岐点だった。
この時期があったからこそ、真にクマリデパートと山乃メイのファンとなることができたのだと、今でも思っている。
<タイ遠征>
もうひとつクマリ関係で挙げるなら、海外(タイ)遠征だろう。
日本武道館ワンマンを控えた、2023年1月23日。
タワーレコード新宿でのリリースイベント中に発表された。
日本武道館後、初めての大きなイベント、そして現体制初の海外遠征。
山乃さんの初海外ということも含めて、参加を即決した。
日本武道館での興奮も冷めやらぬ、2023年4月下旬。
その興奮に負けないぐらいの灼熱の国 タイへ渡航した。
ライブ、カフェイベント、オフ会、他ファンとの交流。
海外というスパイスは魔法のようで、何をするにも特別だった。
危うくアイドルオタクという仮面が外れそうになるぐらいに…(ほぼ外れていた説ある)
タイ遠征に不参加だった場合、日本武道館ロスが発生して距離が離れていた可能性もあると思えば、ここも大きなポイントだったなと思う。
<2組の主現場>
ここからは自身に焦点を置いていきたい。
自分には長らく主現場が2組あった。
クマリデパートだけではなく、NELNというグループも熱心に応援していた。
NELNは、ukkaのMV制作をしていた森岡千織さんがプロデューサーを務めるグループ。
NELNもクマリデパートと同じ2021年初頭に出逢い、推しと呼ぶアイドルがいた。
(余談ながら、NELNもクマリも以前に通っていたukkaが興味のきっかけなのは偶然か必然か…面白いなと思う)
両グループを追っていた時、重心は少しだけNELNに傾いていた。
というか、意識的に傾けていた。
規模や人気はクマリデパートの方が上だった。
NELNは活動初期こそクマリとの対バン(ギュウ農フェスやエクストロメ)があったが、徐々に違う界隈へ行ってしまい、ほとんど被ることがなくなった。
ライブアイドルの世界では大きなイベントの方が発表が早い傾向にある。
発表順に従って予定を入れると現場数が完全に「クマリ > NELN」となってしまう。
そのためにワンマンや生誕祭などの大きなイベントを除いて、NELNの予定が決まってからクマリを入れる形を取っていた。
そんな日々がかれこれ1年半ほど続いた。
同じ対バンに出ることは年1回あるかないかになっていたけど、全然違うからこその楽しみもあり、ゆるゆると両現場を楽しんでいた。
しかし、先に書いた2022年全国ツアーの時期から、そのバランスが崩れ始めた。
全国ツアーを優先したことで、NELNのライブが入る余地が無くなった。
NELNはライブアイドルにしてはライブ本数が少なかったこともあり、クマリとの差は歴然となってしまった。
一度崩れたバランスは元に戻らず、2023年に入っても「クマリ > NELN」という傾向は変わらなかった。
”主現場 2組”という体制はもはや気持ちだけのものになっていた。
そして迎えた2023年6月1日。
NELNが7月14日をもって無期限活動休止することが発表。
名実ともにクマリデパートだけが主現場として残ることになった。
そして、その翌日から始まる「おいでよ!東名阪 “福” Zeppツアー!」で、後の主現場への考え方に多大な影響を与える出来事が発生する。
※NELNについて興味がある方は、以下を読んでもらえれば嬉しいです。
<主現場とは?>
2023年6月。
全国4箇所のZeppでライブを行う「おいでよ!東名阪 “福” Zeppツアー!」
当初は名古屋以外の3箇所に参加予定だった。
Laynというグループのワンマンが名古屋公演の日程(6月2日)と被っていたことが理由だった。
Laynは「人生は永遠の17歳」をコンセプトとする5人組。
2023年夏ぐらいからライブに通い始めて、この時点で準主現場と呼んで差し支えないぐらいの位置を占めていた。
少し悩んだけれど、Zeppツアーは基本構成は同じはずなので1公演だけなら観なくてもいいか…と思い、Laynワンマンを挟むことにした。
詳しくは以下のnoteに記載しているが、最終的に台風の影響でLaynワンマンを欠席、代わりに名古屋公演を観戦することになった。
”主現場を選ぶ = 他を捨てる”という事実を刻み込まれた。
NELNの無期限活動休止の発表時に抱いた「NELNの代わりにLaynが主現場になるかもしれない」という淡い期待はこうして消失したのだった。
唯一の主現場
2023年6月のZeppツアー事件、7月のNELN活動終了により、クマリ一強時代が訪れる。
クマリデパートと山乃さんとの(結果的には最後となる)夏が始まった。
「超NATSUZOME2023」「SPARK2023」「TIF2023」「NEO KASSEN 2023」「リーディングエクストロメ!!」「@JAM EXPO 2023」「エンドレスサマー2023」など。
夏フェスや大型対バンなど、行けるライブは全て参加した。
並行してリリースイベントも開催されていたこともあり、非常に濃い日々を送ることになった。
この辺りを成熟期とでも呼べばいいだろうか。
地に足をつけながら、じっくりしっかり応援できた。
クマリが唯一の主現場となったことで、山乃さんの存在感も増していった。
気がつけば、アイドルオタクとしての日々の中心に”山乃メイ”が据わっていた。
2024年の決意、そして…
2024年はクマリデパートと山乃さんを中心にしよう。
2023年末のnoteにそう決意を書き込んで迎えた2024年。
年始1発目からの大抽選会で色紙をもらえたりして幸先がよいスタート。
そろそろ2月に開催される生誕祭の詳細も発表されるかな…と思っていた1月19日。
それは何の前触れもなく発表された。
「山乃メイ卒業」
最終章の幕開けが突然告げられた。
卒業までの道
発表直後はハラハラしたが、直筆メッセージを見てすぐに落ち着いた。
きちんとした卒業だったからだ。
「クマリデパートは今の6人のままで終わって欲しい」
「でも、誰か抜けるとしたら…それは山乃メイさんだろう」
それは常々思っていたことだった。
なので、卒業すること自体には驚きはなかった。
ただ「想像より早い時期だったな…」と感じたことを覚えている。
(今はこのタイミングで正解だったと思えている)
まあ、何を感じようとも、卒業は決定した。
78日後のゴールを自身がどう迎えるか…後はそれだけ。
思考は一気に切り替わっていった。
卒業発表から卒業までは、大きく3つのフェーズに分かれていた。
「生誕祭前」「野音ワンマン前」「野音ワンマン後」である。
<生誕祭前>
まずは卒業発表~山乃さん生誕祭まで。
この時期は今思えば楽だった。
「最後の生誕祭を盛り上げよう!」という大義名分があったからだ。
この理由さえあれば、他メンバーとも他ファンとも普通に会話ができた。
山乃さんに対しても普段通りを装いながら接せられた時期でもあった。
誕生日当日の配信などもあり、前向きな流れで生誕祭を迎えらえた。
2024年2月24日「山乃メイ生誕祭2024」が開催。
推しに感謝を伝え、推しからは過去最高のステージが贈られる。
端的にいって、幸せな1日だった。
卒業まで残り42日。
<日比谷野外大音楽堂 ワンマン前>
次のフェーズは、生誕祭後~日比谷野音ワンマン前。
まだ余裕があった時期。
山乃さんではなく、グループ全体が主役となるワンマンライブということで、一時的に気持ちを逸らすことができたことも大きかった。
「6人体制の集大成となるワンマンライブです!」という山乃さんの告知を始め、端々に”卒業”がちらつくも、まだ見ないふりをすることができていた。
2024年3月2日、念願の日比谷野外大音楽堂でのワンマンが開催。
過去最高のライブだった…と思うと同時に感じてしまった。
今日が実質的な6人体制ライブの最後だったということに。
卒業まで残り35日。
<日比谷野外大音楽堂 ワンマン後>
日比谷野外大音楽堂でのワンマンという大きなイベントが終わり、次の単独公演は山乃メイ卒業公演となった。
ついに目を逸らせないタイミングがやってきてしまった。
今思い返してみれば、このワンマン後の1〜2週間が一番キツかった。
「どう見送りたいのか、そのために何ができるのか、できないならどうするのか、本当にできないなら諦めるのか、本当に諦めるのか、諦めないならどうするのか………………………………………………………」
そんなことをグルグルと考えていた。
卒業ライブの詳細がなかなか出なかったことも焦る要因となった。
条件が決まれば、それに対して動くしか無くなる。
だけど、条件が無ければ、無限の可能性を考えてしまう。
3月10日〜11日「IDORISE!! FESTIVAL 2024」辺りには結構な限界を迎えていた。
そんな中、3月13日に詳細が発表される。
そこには何と撮影可能エリアの文字があった。
悩みながらも撮影することを選択。
目的も定まったことで諸々が安定、ラスト対バンまでにやっておきたいことを達成して、無事に卒業ライブを迎えることができた。
2024年4月6日「山乃メイ卒業公演 ”6色の想い”」
詳細については以下の記事に譲りたい。
2024年4月10日。
卒業ライブから4日後、最後となるSNSを更新。
”クマリデパート 山乃メイ”はその活動を終了した。
第二章「自分自身」
ここから先は「自分自身/クマリデパート/山乃メイ」と分けて話を展開していきたい。
第二章で触れるのは自分自身について。
クマリデパートを応援した3年間で雑多にやってきたことをまとめていく。
note
2021年4月からクマリデパートのライブ記録をつけてきた。
その数は219本(この記事を含む)
数はそれなりに多いけど、1本1本は本当に簡単なメモ書き。
「質より量」という言葉がぴったりな文章たち。
「記事をきっかけにグループに興味を持って欲しい」みたいな気持ちは全くなく、自身の備忘録でしかなかった。
それでも紐解いていけば、2021年から3年間でクマリデパートが歩んだ軌跡を何となくでも感じられるものにはなっているかもしれない。
後世、クマリデパートに興味を持った人の一助になれば望外の喜びだ。
振りコピ
自身がライブアイドルにハマった直後にコロナ禍が到来。
声出しではなく、振りコピ&マサイの文化で育つことになった。
クマリデパートでも、振りコピメインで楽しんでいた。
当初は手振りを真似してバタバタしていた感じだったけど(今もそんな変わらないけど)途中からは足の動きも加わるようになった。
象徴的なのはターン(回転)するようになったこと。
ある日、他ファンがサクラになっちゃうよ!のサビでターンしている姿に「振りコピってこんなこともありなのか…!」と衝撃を受けた。
この後、スペースが取れる時に少しずつ練習を開始。
そのうち決まった箇所(サクラや365のサビなど)では多少回れるように。
そして、ついに「サクラでのターン後の指差しレス」という寿命が10000年伸びるという必殺技を体得するに至った。
こういう楽しみ方ができるのも楽曲にぴったりな振付があってこそ。
振付師の皆様、ありがとうございました。
写真撮影
クマリデパートはリリースイベントやワンマンなど、特定タイミングで静止画撮影OKとなる(普段の対バンなどはNG)
自身もカメラを持っていたこともあり、いつしかライブで撮影するようになっていった。
初撮影は、2021年4月3日「ギュウ農フェス春のSP2021」
公開した写真はこちら。
当時は本体もレンズも観光時の携帯性を重視した小型軽量のもの。
ライブ撮影には不向きで、ステージで焚かれるスモークに全く打ち勝てず。
アップできたのは表情がない1枚だけだった。
(それでも好きな感じで、やっぱり自分だなと思わされる)
自分でも変わったと思ったのは、2022年5月「レッツクッキン!アフターライブ」の時。
初めてフルサイズミラーレス一眼と結構いいレンズで撮影。
効果は抜群で、やっぱりライブ撮影は機材だなと確信した。
これは「眠れない夜は。」での1枚。
背中の写真ではこれが一番好き。
その後、1年ぐらいはリリイベを中心に撮影。
「メインは振りコピ、たまに撮影」という感じだった。
機材は順調にパワーアップ。
最終的にはアマチュアならまあまあ良い…ぐらいの装備になっていた。
途中からリリイベが全編撮影可になって、撮影する人が可視化されたことでカメコ(カメラ撮影する人の俗称)の知り合いもできた。
自身だけでなく、他の方からも学べるようになった時期でもある。
その中で「撮影は演者との真剣勝負。全力で張り合うんだ」という話が強く印象に残っていて、今も大事にしていることのひとつとなっている。
その真剣勝負を一番できたのが、”クマリデパート 山乃メイ”だった。
ライブの度に改善・パワーアップしていくパフォーマンス。
楽曲に合わせて目まぐるしく変化する表情。
唐突に仕掛けてくるアドリブ性。
撮っていて飽きることなく、むしろ置いていかれないために必死だった。
リリイベ期間は本当に張りがある毎日だったなと改めて思う。
そんなことを言っておきながら、「振りコピ > 写真撮影」という優先度はずっと変わることがなかった。
そのため、単独公演やワンマンで撮影席が用意されていても前方席を優先することが多かった。
(特にワンマンの場合、前方席の特典であるアフターライブ参加券が欲しいという理由もあった)
その結果、思い出深い全国ツアーも日本武道館も撮影することは無かった。
(延期となったツアー福岡公演だけ撮影席にした)
撮影よりも身体を動かしながら全身で感じていたいという気持ちが強かったのだと思う。
その意識が変わってきたのが、2023年6月のZeppツアーの時。
似た構造である各地のZeppで基本構成が同じライブを4本立て続けに撮影。
この時に初めて「カメラ越しでも遠距離でも、ライブの熱量を実感したり推しと目線が合ったりするんだ」ということを知った。
これはZepp Nagoyaの2階席から撮影。
こんな目が合うことってあるんだね…。
それ以降はまたひとつ撮影が面白くなった。
2023年は発売メディアも多く、ほとんどの月でリリースイベントが開催されたこともあって、カメコとしてライブを観る機会が増えていった。
2023年末「クマリデパート大感謝祭 〜体力勝負!初の全曲ライブチャレンジ〜」ではついに撮影席をチョイス。
ソロ曲以外の全曲撮影を達成、という実績をゲットした。
2023年末といえばコミックマーケットも忘れられない。
夏に小田さんと楓さんが参加。
今回も参加するかも…と会場へ向かったら、まさかの山乃さんも参戦。
年末最後に素敵な思い出を残すことができた。
ストロボ忘れて凹んでいたのは秘密。
そして、2024年に突入。
3月の日比谷野音ワンマンは当初は撮影予定ではなかった…のだけど、卒業発表されて、これがラストチャンスかもしれない…と思い直して撮影することを選択。
寒空の下で汗ばむぐらいに集中して撮影できた。
撮影していても熱くて楽しい、史上最高のワンマンだった。
…と、実は2024年初頭に抽選会があって、景品として「写メ券(カメラ機材撮影もOK)」が用意されていた。
これを(他ファンの協力もあり)無事にゲット。
生誕祭で使用させてもらった。
今度はストロボを忘れなかった。
生誕祭自体は撮影できなかったけど、こうやって1枚でも写真として残せたことが嬉しかった。
後日Instagramのアイコンとして使用してくれたことも光栄だった。
撮影することに対して、優しく、強く、背中を押してもらえたようだった。
そして、卒業ライブの日。
紆余曲折ありながらも、最後はきちんと撮影することができた。
(紆余曲折の詳細は以下を参照)
卒業ライブから4日後の4月10日 22時30分。
彼女自身が制作した動画がアップされた。
歴代のソロ曲4曲に合わせて、思い出の写真たちが流れていく。
公式(自身、他メンバー含む)以外にもファンが撮影した写真もあり、その中には自身が撮影した写真も使ってもらえていた。
当初は「ありがたいな…」としみじみ観ていたけど、4曲目(花束)でサビが流れた瞬間に感情が一変した。
卒業ライブのアンコール明けのソロ曲。
構図としては悪くても、正面から残したいとシャッターを切った写真。
それがラスサビのきっかけに使われていた。
一気に涙がこみ上げてきて、それ以降はちゃんと観ることができなかった。
ただただ「こんな幸せなことってあるのか…」と思った。
ボロボロになるぐらいまで泣いたのは久しぶり…少なくともアイドルオタク人生では初めてだった。
最後の更新と思われる時間(23時59分)まで少し時間があったので入浴することにした。
お陰で少し落ち着きを取り戻すことができた。
予想通り、23時59分に最後の投稿がされる。
そして、再び涙腺が崩壊した。
挨拶文には自身が卒業ライブで撮影した写真が添えられていた。
最後の最後にして、史上最大のサプライズ。
最高の推しから与えられた最高の名誉。
さっきのが大人しかったと思うぐらいに嗚咽した。
カメコとしても、アイドルオタクとしても、満ち足りた瞬間だった。
卒業ラストで撮影して本当によかった。
自分ひとりでは決して撮れなかったと思う。
色々な方に協力いただき、見守ってもらえたからこそ、あの日あの場所で撮影することができた。
周りの皆様に改めて感謝したい。
ありがとうございました。
Furniture Girl
卒業ライブの記事でも結構語っていたので今回は簡潔に。
「山乃メイが初めていい歌割りをもらえた曲」
もちろん曲自体も好きだけど(振りコピも楽しい)これが一番好きな理由。
”クマリデパート 山乃メイ”のアイドル史における大事な1ページだからこそ、初披露から卒業まで一貫して好きでいることができた。
ずっと「MC曲振りからの披露が最高」と言い続けてきたけど、これにも理由がある。
「曲振り = その人の代表曲」となる初めての楽曲だったこと。
本人が得意とするトークと紐づくことでグループの武器になれたこと。
そういった意味でMCでの曲振りは特別だと思っていた。
写真撮影の流れを引き継いで補足するなら、Furniture Girlは撮影難易度が格別に高かった印象がある。
一枚絵になる場面が限定的な上、そこが照明キメポイントとなることが多くて逆光や光量不足になりやすいためだ。
(あとは好きすぎて浮ついてしまい、安定して撮れないという問題もある)
それでもFurniture Girlを撮るのは好きだった。
大量の失敗写真も思い出と共に大切に保管していきたい。
サクライケンタさん、☆Taku Takahashiさん、Mitsunori Ikedaさん。
素敵な作品、ありがとうございました。
第三章「クマリデパート」
今回、山乃メイさんの卒業以外にもうひとつ向き合うべき大切なことがあった。
「クマリデパートからの卒業」である。
山乃さんを推していたが、それはクマリデパートというグループに所属していたからこそ成り立っていたものだった。
本人も大切にしていた、”山乃メイ”ではなく”クマリデパート 山乃メイ”であるということ。
自身の意識としても、山乃さんのファンである前にクマリデパートのファンだと思っていた。
「クマリデパートというグループが大好き」という前提が常にあった。
楽曲、パフォーマンス、メンバー、運営(方針&スタッフ)、推しとの相性、現場の雰囲気、ファンの規模…といった様々な要素の総合点が最も高かったグループなのは間違いない。
その中で一際好きだった要素をまとめてみよう。
楽曲
ひとつだけ好きな要素を挙げるとすれば、それは「楽曲」となる。
社長兼プロデューサー兼作家であるサクライケンタさんを中心とするクリエイティブが好きだったという点に尽きるのかなと思う。
自身はライブが好きで、ライブで披露される楽曲が好きだ。
楽曲があって、初めてメンバーのパフォーマンスがある。
それは原理原則に近いものだと認識している。
(逆のパターンもあるだろうが、それは珍しいケースだと思う)
そして、意図を持った楽曲はグループのコンセプトに直結する。
クマリデパートの場合は”こころのデパート”がそれにあたる。
コンセプト
”こころのデパート”
本当に良いコンセプトだと思う。
優しくて、包みこんでくれる。
ライブアイドルの世界は楽しいことがたくさんあるけど、それと同じぐらいに辛いことや面倒なこともある。
良くも悪くも洗練されておらず、奇跡のような瞬間もあるけど、嘘だと思うぐらい酷い時間もある。
いつでも波があり、ひとつのグループにしっかり通うという行為は決して楽なことではない。
そんな中、クマリデパートは例外のような存在だった。
端的に、ストレスが非常に少なかった。
自身に合っていたのだと思う。
運命の出逢い、そういって過言ではない。
数百というグループを観てきて、ようやく辿り着いた場所。
それが”こころのデパート”だった。
メンバー・運営スタッフ・ファン
”こころのデパート”の実現にはメンバーと運営スタッフが欠かせない。
むしろ、彼ら彼女らが造り上げているといっても過言ではない。
そして、そこにはファンが存在しなければ、決して成立しない。
<山乃さん以外のメンバー>
基本推し以外のメンバーとは関係性を構築しないのだけど、クマリは例外的に他メンバーとも交流を持っていた。
主現場として通うなら、全員を知っていた方が良いと考えていたからだ。
そのお陰でそれなりに各メンバーの個性や魅力を知ることができた。
簡単に語ることはできない(語ることに気が引ける)けど、一言だけ添えて、それを今までのお礼とさせていただきます。
<運営スタッフ>
ここで詳しく論ずることはしないけど、ざっくりいえばライブアイドルの運営に対しては不満を持つことが結構ある。
その点、クマリデパートはそういったことが非常に少なかった。
サクライケンタさんを頂点とする大枠は変わらずながら、マネジメント体制は途中で大きな変化があったりもした。
それでも根本が変わった感じがしなかったのは、受け継がれたものがあったり、ekoms全体の社風みたいなものがあったのかもしれない。
何にせよ、ファンをファンとして接してくれる貴重な存在だった。
<ファン>
これもライブアイドルあるあるだけど、新規ファンに冷たい現場は結構ある。
特に歴史を重ねているグループは良くも悪くも形が決まっていて「この型にハマるかハマらないか」の判断を迫ってくるようなところも少なくない。
その点、クマリは良くいえば寛容、悪くいえば無関心だった。
最初の1年は誰とも話すことなく淡々と通っていたけど、それで何か不利益が生じたことはなかった。
第一章に記載した通り、2022年秋(全国ツアー)から2023年春(日本武道館)ぐらいで、それなりにファンが入れ替わった感じがするけど、だからといって全体的な雰囲気が変わることはなかった。
現在通っている人を中心として、緩やかに秩序が形成されていく。
なかなか珍しい現場の雰囲気。
だからこそ、マイペースな自分が通えたのかもしれない。
現場でお会いした皆様、SNSなどで交流した皆様。
ありがとうございました。
旅立ち
クマリデパートという場所が大好きだった。
”こころのデパート”の住人であることが誇らしかった。
住人として、この先もずっと過ごしていきたいと思っていた。
こうして立ち去る日が来ることを想像もしていなかった。
…というよりも、想像をしたくなかった。
山乃さんの卒業発表後、「山乃さんが居なくても、クマリデパートを応援できるのだろうか…?」と自問自答したことがある。
その答えは…”No”だった。
山乃さんがいないクマリを”こころのデパート”ではないと思う自分がいた。
クマリを前提に山乃さんを推していたはずが、いつの間にか逆転していた。
山乃さんそのものが自身にとっての”こころのデパート”となっていた。
個推しになる、と決めてから3年。
その目標がついに叶った。
そして、箱推しとの違いを身を持って知ることになった。
「これからもクマリデパートを応援して欲しい」といって卒業した山乃さんの願いに応えられないのはもどかしく、途中で離脱することに対しての申し訳なさもある。
ただ、それを理由に引き続き通うことにしても、自身が”こころのデパート”だと思えてない以上、どこかで歪みが出てしまう。
大好きな場所を嫌いになってしまう日が来てしまうかもしれない…
推しと一緒に卒業することが、一番前向きな選択肢だった。
ありがとう、クマリデパート。
これからも奇跡の出逢いを重ねながら、誰かの”こころのデパート”であり続けていくことを願っています。
第四章「山乃メイ」
いよいよ、推しである山乃メイさんについて書いていきたい。
ここから先は自身の妄想がまあまあ混じっていくので要注意。
(勝手な山乃メイ観を垂れ流していきます)
”クマリデパート 山乃メイ”とは?
「”何とかする”のレベルがめちゃくちゃ高くて、人間味にあふれている、自立しようとする人」
これが自身が考える山乃メイ評だ。
ひとつずつ整理しながら解説したい。
<何でもできる 何とかしてきた>
「山乃メイ = 何でもできる」
そんなイメージを持つ人は結構いるのではないだろうか。
事実、山乃さんは得意なこと・できることが非常に多い。
ただ、こうして並べていくと、あることに気がつく。
そのほとんどが後天的に獲得されるものだということに。
それらは努力や修練によって、身につけることができる。
その過程は山乃さんでも、他の人でも変わりはない。
山乃さんが変わっている…特異ともいえるのは「獲得数の多さ」と「点数の高さ」が高次元で両立していること。
色々なことができる上、それぞれが一定以上のクオリティを持っている。
全てを平均点にすることすら困難だと思えば、これはちょっとしたチートみたいなもの。
才能…という言葉で片付けたくはないので、無理に表現すれば、目標に対するアプローチの質と量が相当に優れているということなのかなと思う。
それが端的に表れているのが以下のブログでの言葉。
そして、以下のように対象の本質を捉えようという意識が強いことも見受けられる。
ライブパフォーマンス以外にも様々な能力が求められるライブアイドルという職業をやりきることができたのは、こうしたアプローチ力や姿勢の賜物だったのかなと思う。
すごく強引な表現になるけど、
「ライブアイドルも何とかして自分のものにできた」
と言っていいのだろう。
自身のスタイルが大枠としては同じ方向なので、この事実に対しては尊敬というより畏怖に近い感覚がある。
(まあ、怖がっていてもしょうがないので上手く向き合いながら自身の糧にしていきたいところではある)
大学卒業から数年でこれは末恐ろしい。
この先、何を目標とするのか、それも自分の物にできるのかどうか。
もし次の活動を追えるのであれば、その点も着目してみたい。
<感情がない 人間味あふれる>
本人やメンバーの口から”自身は感情に乏しいと認識している”と意味合いの話が出てくることが時々あった。
自身から見ても、その傾向がある人だと感じていた。
なぜなら自身も同じように考えていたからだ。
自分なりの言葉では、
「他人に対しての興味が低い」
という表現になる。
まずは自分があり、自分があるからこそ、他人と向き合える…という考え方。
他人に合わせるのではなく、自分の個性に興味を持つことで解決しようという方向性。
理由は他人、行動は自分。
これこそが”彼女らしさ”なのかなと思う。
他人への感情と反比例に、自身への感情は激しいものがあると想像する。
悔しさ、もどかしさ、飽きや諦め、好き嫌い。
アイドルに対して失礼な表現だけど、そういった感情をしっかりと内包している、とても人間味にあふれる人なのかなと思っていた。
ただ、それらの感情は”クマリデパート 山乃メイ”を表現する中で不必要なものとされ、出来るだけ排除、または秘めていたような印象がある。
その結果が「感情のない人」という表現につながったのではないだろうか。
活動のほとんどにおいて、アイドルを演じきっていたが、ふとした時に人間としての部分が顔をのぞかせることもあった。
本人は遺憾だったかもしれないけど、本来のロールに必要ない要素で好ましいと感じられるのは”クマリデパート 山乃メイ”ではない本人の魅力だったのではないかなと思っているし、それを見せてくれたことの嬉しさと感謝は忘れることができない。
<自立しようとする人>
これは6人体制の中で最初に卒業を決めたことが一番わかりやすい例で、それ以上何をあげる必要もないくらい。
一応補足するなら、自分の人生に対しての責任を一番に考えている人。
そして、難しい場面でもその責任を果たせる人だと思っている。
それは当たり前のようで当たり前ではなくて、「自分の人生を選ぶ = 他を選ばない」という苦痛を伴う。
それが好きな場所や人であれば、なおさら辛い決断となる。
今回、その決定を行ってみせた。
自立を強く望まない限り、選ぶ必要のない答え。
あっぱれな選択だなと改めて思う。
自身との関係性
ここからは自身との関係性や相性をテーマに筆を進めてみたい。
主観が続くけれど、我慢して読んでもらえれば嬉しい。
<距離感>
「近いようで遠く、遠いようで近い」
それが山乃さんとの距離感だった。
無理に踏み込むことはしなかった。
絶妙な…つい埋めたくなるような、その間を大切に守っていた。
「下手に期待しない・期待させない」
このこともずっと意識してきた。
全通できるわけでもなく、何枚もチェキを撮れるわけでもない。
そもそもが”ただのファン”であり、もっといってしまえば”ただの他人”である。
過度な期待はそれぞれの不幸にしかならない。
適度な距離感、適度な期待感を目指していた。
プラスを大きくするよりも、マイナスを出さないことに比重を置いた。
冒険ではなく、安定を選んだ。
どれも1日でも長く応援するための取り組みだった。
”クマリデパート 山乃メイ”を最後まで見届けるため、途中で他界するのだけは絶対に嫌だったのだ。
山乃さんが実際にどう思っていたのかはわからないけど、こちらの姿勢に合わせてくれていたことは間違いない。
(飛沫防止シート時代に顔が突き抜けるぐらい近寄ってきたことから)”距離感バグ”と呼ばれることもあったけど、実際には繊細に心の距離を測ることができる人だと思っている。
<価値観・相性>
ある物事に対する捉え方が同じであることを「解釈一致」と呼んだりするけど、山乃さんとはそんな感じになることが度々あった。
特典会での会話も、自然体で接することができた。
こんなにも無理せず、普通に話せるアイドルは山乃さんが初だった。
アイドル側とファン側がそれぞれ合わせた(調整した)結果、”いい感じの会話”が成立していると思っているけど、その労力が山乃さんの場合は全くといっていいほど必要なかった。
何となくだけど、自身が理想とするアイドルオタク像(ゆっこい)と彼女が理想とするアイドル像(クマリデパート 山乃メイ)との相性が悪くなかったことが原因なのかなと考えている。
ここから少し話が飛躍するけど、昨年後半ぐらいから自身は山乃さんのことを”アイドルオタク人生における最良のパートナー”だと認識していた。
意味合いとしては「相棒」が一番近い。
”応援する対象(アイドル)”と”応援してくれる存在(ファン)”は切っても切れない、ニコイチの関係であると思っている。
「なぜ”クマリデパート 山乃メイ”が最良なのか?」
明確な答えは難しい。
様々な理由が積み重なった結果…としか表現できない。
それでも無理に絞り出すとしたら…
どのアイドルよりも負けられない気持ちを持てた、というのが一番の理由かなと思う。
座右の銘を「昨日の自分より 今日の自分」と答えるだけあって、”クマリデパート 山乃メイ”はぐんぐんと成長し、一人前のアイドルとして確立されていった。
その様子を観る度に「もっと”ゆっこい”として成長しよう」という焦りにも近い決意が胸に刻まれていった。
昨日の自分よりほんの少しでもマシになるための原動力となってくれた。
そうして卒業の瞬間まで進化を止めなかった推しに食らいつくような形ではあったけど、自身も最後まで歩くことができた。
そうできたのは、山乃さんと思考や価値観が近いと思えたからこそだろう。
人は共通点がないと比較ができないもの。
全然違う価値観の人だったり、全く想像できない方法での成長だったりしたら、こんなにも気に留めることはなかった気がする。
彼女がいなければ、もっと低いレベルで満足していた可能性が高い。
自身のアイドルオタク人生はパートナーに恵まれた幸せなものだったのだなと感じる。
最良のパートナー、それは”最推し”ともいえる存在。
…なのだけど、それを表明することに自分は非常に高いハードルを設けてしまっていた。
<最推し>
「あなたの最推しは誰ですか?」
非常に苦手な質問である。
パッと答えられる人を尊敬する。
自身は長らくこの答え…というより問い自体から目を逸らしていた。
一番の理由は「最高を決めてしまうことへの恐れ」だ。
賞レースの審査員が1組目に最高得点を入れにくいのと同じ感覚。
最高だと決めた後、より良いものが出てきたら…
そう思うと怖くて、決断できない。
特にアイドルは人数が多く、毎日誰かしらがデビューしている。
いつでもどこでもどんな形でも、”最高の推し”と出逢う可能性がある。
否が応でも慎重にならざるを得なかった。
どのタイミングで”最高の推し = 最推し”を決めるのか。
それはアイドルオタク人生の設計に深く関わる大問題だった。
決して失敗は許されない。
アイドルオタクとして長く生きたかった自分は、その答えを棚上げした。
複数人いる推しに対して、優先度をつけることを避けた。
順位をつけない運動会を永遠に楽しもうとした。
だけど、それは無理な話だった。
全てを平等にできるわけがなかった。
数字は正直で残酷で…毎月集計していた現場数に全てが表れていた。
特に主現場がクマリデパートだけになった2023年夏からは顕著になった。
秋に入った頃には自分の中では質問の答えが出ていた。
それでも、その回答を大っぴらにすることはしなかった。
全てをさらけ出すことが幸せにつながるわけでもないからだ。
(近しい人には言わずとも察せられていたとは思われる…)
答えを胸に秘めたまま過ごしていた日々は長く続かなかった。
山乃メイさんの卒業発表により終わりを告げた。
「あなたの最推しは誰ですか?」
時間がない。
答えを叫ぶのは、今しかなかった。
「クマリデパート 山乃メイです!」
遅まきながら、覚悟が決まった瞬間。
こうしてゴールを迎える準備が完了したのだった。
その他
以下で本人を取り巻く環境についても言及したい。
<3期>
当たり前だけど、3期であったという意味は大きい。
3期の2人は途中加入の難しさをしっかりと浴びてきたと思っている。
自身が通い始めた2021年頭でも「4人体制の方がよかった」という人がいた。
3期に対する批判も(他グループに比べれば少ないけれど)あった。
実際に「各所やりにくいこともあるんだろうな…」と感じたりもしていた。
それらは時と状況によって改善されていった。
体制後半に入る頃には「3期だから…」みたいなことは表面上、ほとんど感じることはなくなった。
3期であることを久々に実感したのは卒業発表の時。
決断できたのは、3期だったことも関係しているのかなと思った。
1期か2期ではもう少し難しい決断になっていたように感じる。
3期である不幸もあれば、3期である幸運もある。
それらは表裏一体で、お互い様の関係。
そういった機微も今回の卒業を通して実感できた。
<ekoms>
山乃さんがekomsという事務所に所属していたこと。
これ自体が奇跡的な出来事のように感じている。
端的にいって、山乃さんはekoms…というかサクライケンタさんとの相性はそんなに良くないと思っていた。
サクライさんは社長でプロデューサーで作家という多くのことを自分で決めて責任を取れる人…ekoms国の王様である。
山乃さんは社長でもプロデューサーでも作家でもないけれど、自分のことは自分で決断したい人…山乃国の王様である。
王属性は共存しにくいことが常。
圧倒的な規模や力量の差があれば成り立つけれど、その差が無くなるにつれて、すれ違いや軋轢を避けられないようになっていくもの。
「組織全体に迷惑が掛かる前に、独り立ちしよう」
そんな気持ちもあったのかなと推察している。
山乃国がどう進んでいくのかはわからないけど、ひとつ言えるのは、望むにせよ望まないにせよekomsで培った4年間の経験がこれからの武器になっていくということ。
一見ekomsっぽくなかった山乃さんが、実は一番ekoms(サクライケンタさん)の子供のような存在になる可能性があるかもしれない…と思ったりもしている。
その意味でも将来どうなっていくか、楽しみだ。
<ちゅるラジ>
山乃さんを語る上で抜きにすることはありえないコンテンツ。
それが「山乃メイのちゅるっとラジオ ちゅるラジ」である。
初回放送は2022年5月11日。
各種用事が重なった時を除き、毎週放送を続けていった結果、卒業までの2年弱で約50回を数えるに至った。
時期に合わせたコーナーもあったけど、基本的には”ふつおた”と呼ばれるファンからの投稿を元にトークを膨らませていくという、ラジオの王道ともいえる手法を取っていた。
1週間の振り返り、直近のライブ感想、ファンが気になっている質問など。
様々な話題を自分なりの言葉で表現してくれた。
”クマリデパート 山乃メイ”ではなく”山乃メイ”であり、時には”山乃メイの中の人”が出てくることもあった。
それも許されるぐらいの温かい空間。
”山乃メイ”のホームといえる場所…それがちゅるラジであった。
山乃さんが凄いのは、自ら生み出して育ててきたところ。
コンテンツを創ること、創られたものを運用すること。
片方できる人がいても、両方できる人は稀。
それを実現する能力の幅と共に、それほどまでに大事なものとしてリソースを振っていたのだな…とも感じる。
そんな、ちゅるラジ。
当然、ファンである自分にとっても大切な存在だった。
毎回聴くのはもちろん、番組への投稿もしていた。
他番組(クマリデパートの極ラジも含めて)では全くしていなかったけど、何となくちゅるラジではやりたくなった。
当時の気持ちを紐解いてみれば、一緒に参加しているという感触を得たかったのだと思う。
そんなこんなで、ちゅるラジでは基本的に毎回投稿していた。
なけなしの知識ながら、ラジオ番組はパーソナリティと投稿者の協力、つまりはチームプレーが大事という認識はあった。
そこで山乃さんが今回伝えたいであろうことを予想し、それが話しやすいような文面を送ることにしていた。
そのほとんどが直近でのライブに関する内容だった。
ゆっくりと落ち着いて話せるラジオだからこそ聞くことができた話がたくさんあって、自身が山乃さんやクマリデパートへの理解を深めるための大きな助けとなった。
自身が提供できない話題を投稿してくれる方の存在もありがたかった。
そのお陰で自分だけでは知りえなかった一面や情報に触れることができた。
人間は醜いもので、折角の投稿が不採用になると、つい悔しくなったり切なくなってしまう…残念だけど、その気持ちは避けようがない。
だけど、採用された投稿が「これは自分の投稿、読まれないよな…」と納得する内容ばかりで、それに毎回救われていた。
時には結論ありきの強引で傲慢な内容を送ってしまうこともあった。
そういう投稿は決まってスルーしてくれていて、それも優しさだな…と放送後に反省することもあった。
ひとつの番組に対して、これだけ感情移入したのは今までにない経験だった。
それぐらい、ちゅるラジは自分にとっても大きな存在だった。
<ラーメン>
ラーメン…特に二郎系。
それは山乃さんと切っても切れない関係。
ラーメンを表す「ちゅるっ!」は山乃さんの代名詞のように使われている。
(前述のちゅるラジもそう)
第一章でも書いた通り、山乃さんに注目するきっかけがラーメンだった。
なぜなら、自身もラーメン好きだから。
正直、アイドルオタク歴よりもラーメンオタク歴の方が長い。
ただひとつだけ、ほとんど手を出していないジャンルがあった。
二郎系だ。
量は多いし、盛り付けも雑だし、ルールも複雑だし、店員もお客も怖そう。
そんなイメージを持っていた。
昔一度インスパイア店に行ったもののハマらず、それ以来敬遠していた。
そんな縁遠かった(距離を取っていた)二郎系と向き合うきっかけをくれたのが山乃さんだった。
その影響は絶大で、初特典会から2ヶ月ほど(2021年5月)で二郎系に訪問。
その勢いで本家も含めて、通い始めるようになった。
その中で二郎系の良さを知っていくことにはなったけど、ベースにあるのは山乃さんとのコミュニケーションツールのひとつという感覚だった。
特に遠征時は二郎系を食べるように心がけていた。
話のネタになると共に、団体行動で訪問が難しいであろう山乃さんに代わって感想を残そうという気持ちもあった。
(いい迷惑だったかもしれない)
そうしていつの間にか、二郎系が優先度の上位にいるようになった。
卒業後、頻度は落ちるかもしれないけど、定期的に食べると思う。
そしてその度に大好きだった二郎系アイドルのことを思い出すのだろう。
終章「卒業」
今回の山乃さん卒業をきっかけに、自身はアイドルオタクとしての”生き方”から卒業することした。
最後にその決断に至るまでの話を残しておきたい。
”3年周期”という考え方
自分の感覚で恐縮だが「物事は3年周期で移り変わる」と考えている。
雑な言い方をすれば「3年で一旦飽きる」ということである。
2024年開始時点で、ライブアイドルを趣味としてから5年、クマリデパートを応援し始めてから3年が経過。
それぞれ2周目の途中、1周目が終わりそうというタイミングだった。
特にクマリに関しては節目となる時期に差し掛かっていた。
2024年当初に立てた「クマリデパートと山乃メイを中心にしていく」という目標は「2周目に突入するぞ…」という覚悟も含んでいた。
自身の経験上、2周以上続いたものはほとんど無い。
一か八かな気持ちが強かった。
そんな決意を秘めながらスタートした2024年1月。
山乃さんの卒業が発表された。
様々な気持ちが駆け巡る中、「1周目で綺麗に終われる…」と安堵する自分もいた。
出逢ってからの3年間。
数多くの出来事があり、それぞれにしっかりとした思い出がある。
文字や写真で自分なりに記録として遺すこともできた。
卒業発表の時点で充分に満足していた。
だから「もっと続けて欲しい」「もっと応援していたかった」という気持ちは湧いてこなかった。
そのことが、とても嬉しかった記憶がある。
一番綺麗なタイミングでのお別れ。
推しからもらった、数多くの贈り物の中でも一際特別なものだった。
アイドルオタクという”生き方”
ここ数年。
ライブアイドルを応援することを軸にして生きてきた。
家族、友人、仕事、他趣味など。
全てのことよりも優先してきた。
”趣味”ではなく”生き方”となっていた。
生き方は何よりも優先される。
時間、お金、やる気。
自分が自分のために使うリソースを全て投じた。
そうして出来上がったのが”ゆっこい”というアイドルオタクだった。
急造が故に、土台は脆弱。
止まったら転んでしまうため、ただひたすらに走った。
そうして走っているうちに、3年が過ぎた。
3年周期理論でいう、1周目最終年となった2022年。
「ライブ観戦数 400本弱」「入場時ドリンク代 20万超」という数字を記録。
華々しい(といっていいかわからないが)数字の裏側、アイドル関連以外の部分は壊滅的…ズタボロだった。
何もないどころか、あらゆるところで多大なマイナスが発生していた。
この時点で、もうアイドルオタクを”生き方”にするのは無理だと悟った。
このままではマズい、壊れてしまうと、本能が警鐘を鳴らしていた。
翌年2023年から少しずつでも減らそうと努力したけど、一度ついた勢いはなかなか収まらない。
根本的な変化を起こすには至らず「アイドル > その他」の日々が続いてしまった。
そして、2024年。
もはや限界なのではないか…という不安を抱えながらも、クマリデパートと山乃メイとの2周目に突入する…予定だった。
今の生き方とのお別れ
それにストップをかけてくれたのが、山乃メイさんの卒業だった。
生き方を見直そうと思えたのは、彼女が自身の未来について決断する姿をみせてくれたから。
自身もこのタイミングできちんと向き合うことができた。
生き方を変えることを決められたのは、彼女が去り際に最高の贈り物を届けてくれたから。
写真撮影の項目でも書いたけど、最後のSNS更新で写真を使ってくれたことが決定打となった。
想像を遥かに越えたレベルで満ち足りてしまった。
"クマリデパート 山乃メイ"がゴールとなることを受け入れざるを得なかった。
アイドルオタクという生き方にこだわる理由が優しく解けていった。
こうして、自身も新たな道を探索することに決めた。
まだまだこれからだけど、推しからもらった折角の機会。
顔向けできるぐらいには頑張っていきたい。
おわりに
これまでのアイドルオタク人生を振り返ってみて思うのは、"クマリデパート 山乃メイ"と"ゆっこい"が同時期に活動していたことが一番の幸運だったということ。
数百のグループ・数千のアイドルを観て、様々な出逢いと別れを繰り返しながら、クマリデパートと山乃メイさんに巡り合うことができた。
山乃さんが以前のオーディションでデビューしていたら、自身が推しを探すタイミングが数ヶ月でもズレていたら、出逢うことはなかったかもしれない。
出逢ったとしてもここまで関係が深くなることはなかったかもしれない。
アンサー!!での歌い出しの通り、出逢いって奇跡だなと。
本当に、本当に、そう思う。
"クマリデパート 山乃メイ"と出逢えてよかった。
ぼくは、しあわせだ!
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
お陰ですっきりしました。
これからは”趣味”として、ライブアイドルを応援していきます。
荒療治が必要として、今後一切ライブを観ないことも考えましたが、二度と行かないのは勿体ないと思えるぐらいに面白い世界であること。
そして何より、推しと呼ぶアイドルが続けていることもあって、切り捨てることができませんでした。
新たな生き方を軸にしながら、2人の最後を見届けていきます。
現場でお会いした際には、よろしくお願いします。
ちゅるっ!
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