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「当たり前」は運命を示す。

今年の初め、リノベ中の動画データがすべて入っているデスクトップPCの電源がウンともスンとも言わなくなった。いずれ暇ができたら編集してYouTubeなどにアップしようと思いつつ約二年分の作業風景を撮り溜めていたらこれである。たくさんの思い出の詰まった記録たちだったが、不思議と悲しんだりはしなかった。「おう、そうか」と思った。もともと執着心というものが薄いのだろう。おう、そうか。じゃあしょうがない。たとえデータが消えたとて、起こった出来事や記憶まで消えたわけではない。全部心に残っているし、何よりその作った家にいま住んでいる。それからしばらく、動かなくなったパソコンのことはすっかり忘れていた。

先日暇ができたので、ふとあの動かなくなったパソコンを修理してみようと思い立った。やりたいと思った時がタイミング。製造元に問い合わせたところ、故障部分と思われるパーツはもう正規で取り扱っていないのでうちでの修理は不可能ですと言われた。症状から推察するに、動かなくなった原因はマザーボードという部分の故障ではないかとのことだ。原因が特定できたことに対して感謝の言葉を述べ、ヤフオクで同じ型番のマザーボードを落札して見様見真似で分解して該当部品を交換したら本当に起動した。ビバ、大成功。ありがとう窓口の君。と思いきや、しばらくすると今度はアップデートのエラー云々で何時間待ってもデスクトップ画面に入れなくなったので、データを抜き取るために今度は外付けHDDとSSDカバーが必要になった。あの、神様。一体あなたは僕に何をお求めなのでしょうか。僕はただ、撮った動画を整理してオンライン上に置いておきたいだけなのです。たったそれだけのことをやるために、なぜ自力で廃盤のパーツを落札したりパソコンをしこしこ分解修理しなくてはならなくなっているのでしょう? お陰様で簡単な自作PCくらいなら作れそうな知識が身に付いてしまいました。笑ってしまいます。一体僕は何を目指しているのでしょうか。

他の人ならすんなりできるはずのことが僕にだけちょっと難しく起こる。そういう現象は、実は昔からちょくちょくある。ゲームの難易度が「ハードモード」に設定されているみたいな感覚だ。ハードモードと言っても、大きな持病があるとかではない。ノーマルモードよりちょっとだけめんどくさいことが毎回必ず起こるタイプのハードモードである。何をするにも一手間二手間多くかかる。周りの人たちがすんなりと通り過ぎていく中、いつも僕だけ変なところでつまづいている。

この現象は音大の作曲科にいた頃初めて気が付いた。あれ? 僕の人生、なんか変じゃない? 試験のためにフルオーケストラを使う曲の演奏を依頼したとき、某有名指揮者の方とまったく人間的なそりが合わず、僕の曲だけリハーサルをしてもらえないまま本番を迎えるという出来事があった。他の同級生たちからも教授たちからもそういった類のトラブルは耳にしない。まさに前代未聞である。演奏家は依頼すればちゃんと練習してくれるものだし、プロのオーケストラは本番前にリハーサルをするのが普通だ。しかし僕の時だけそうならない。当たり前のことが当たり前に起こらない。「みんなが当たり前のノリでやっていること」を、僕も同じくらい当たり前のノリでやろうとすると、必ず何かイレギュラーが起こる。問題解決のために腹を決めて上の人に直談判しに行くなど、本来関係ないはずの本気のワン・アクションが必要になる。僕自身に何か原因があるのでは? と何度も何度も自問したが、これに関しては論理的な説明はいまだつけられずにいる。

そんな人生を歩んでいるうちに、自分にとって当たり前のことをやると人に驚かれるようになった。たぶん、これまでいろいろなことを変なところでつまづきつまづきやっているうちに、他の人がやろうとすら思わないようなことができるようになってしまったのだと思う。繁華街の路上で3年半タロットを引くだけで生活することに比べたら、空き家をDIYでリノベをしてゲストハウスを作るのはそこまでハードルは高くない。住所不定無職で知らない土地を渡り歩き時々一文無しになりながら生きるのに比べたら、クラウドファンディングを成功させることは容易だ。もちろんきついこともあるけれど、どうすればいいかはわかる。どうすればいいかがわかっていることは、ただ、それをやればいいだけだ。

「由宇さんは何でもできて器用ですね」と言われることがある。おそらくお褒めの言葉なのでありがたく受け取るが、このイメージはまったくの誤解である。できるだけ正確な言語化を試みるならば、「何事においても不器用なまま最後まで力づくで貫き通してしまうために、遠くから見ると何でもできる器用な人に見えてしまっている」ということだと思う。実際に近くで見てもらえればわかるはずだ。やっていることは四苦八苦、やることなすことすべて地道で泥臭い。しかも全然“上手”ではない。ただ、自分で決めたことに関してはザ・ド根性魂と言うか、当たり前のように人生のすべてを懸けてしまえる。当たり前のように全身全霊の本気フルパワーを発揮して、とにかく最後までやりきってしまえるのだ(ちなみにこのザ・ド根性魂は、自分で決めたわけじゃないことに関しては1ミリも発揮されないのである!)。

刀根里衣さんの『なんにもできなかったとり』という絵本が僕はとてもとても好きだ。ゲストハウスの目立つところに置いて、興味を持ってくれる人がいないか実はひっそり待っている。この絵本は、他のとりたちが全員できることを自分だけできないとりの物語である。「みんなは 自分でからを割れるのに、ぼくには 割れない。」「みんなは 木の実をとれるのに、ぼくには とれない。」とりは他のみんなが当たり前にできることができるようになるために、たくさんたくさん努力や工夫をするがうまくいかない。「ああ、どうしてぼくだけ なんにも上手に できないの?」ひとりぼっちになったとりは、草原で花たちに出会う。「もうすぐ生まれる子どもたちが 安心して花を咲かせる場所がなくて こまっているの。」とりは答える。「ぼくの体なら どこへも飛ばされずに花を咲かせられるよ。」そしてとりは自分のふかふかのからだに花たちの居場所をつくる。

由布院の木工細工のアトリエでこの絵本を見つけて、うっかりその場で号泣してしまった。「みんなは 自分でからを割れるのに、ぼくには 割れない。」「みんなは 木の実をとれるのに、ぼくには とれない。」「ああ、どうしてぼくだけ なんにも上手に できないの?」……僕もずっと同じ気持ちだった。みんながすんなりできることを、自分にはなぜかどうしても同じようにできない。みんな当たり前のように学校に行けていたり就職したりしているのに、自分にはそれがどうしてもできない。だから別のやり方で、自分の魂と命を最大限にこの世に活かして生きる方法を模索するしかなかった。『なんにもできなかったとり』は僕の物語だった。

「社会に決められた枠にハマって生きるのをやめて自分らしく自由に生きましょう!」的なことを言う人がいる。僕もこんな見た目と生き方なので、その手のことを言う方々と同一視されることは多い。けれど本当のところを言うと、社会に決められた枠にハマって生きてしまえるものならば、僕は今までこんな苦労をしなくて済んでいるんだよなと思ってしまう。空き家をリノベしてゲストハウスを作ることより路上でタロットを引いて生活する方が難易度が高いと先ほど書いたが、僕にとっては人に雇われて週5日フルタイムで働く生活のほうがずっとずっと難易度が高い。看護師さんすごい。大工さんすごい。歯科衛生士さんすごい。尊敬してる。僕にはないものを持っている。僕が人生で一度もできたことがないことを見事やってのけている。仲良くしてください。僕には無理だった。寄せる努力はしたけれど、何回やっても何回やっても本当に本当に無理だったから、“仕方なくそうしていないだけ”なのだ。みんなにとっての当たり前ができないから、自分にとっての当たり前を何年もかけて磨いて「北沢由宇」という役割を築き上げていくことでしか、この世界を生き伸びる手段がなかっただけなのだ。自由な生き方を推奨していきたいとか、風の時代に乗っていこうとか、そういう気持ちは僕にはない。僕がそうしたいからそうしているだけだ。僕がその方が楽だからそうしているだけだ。サラリーマンができるんだったらやればいい。苦しくないならやればいい。毎月給料をいっぱいもらって、その一部を僕にもわけてくれ。海辺の手作り古民家で、気合いの入ったタロット占いとふかふかのベッドをご用意してお待ちしております。

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