「ありがとう」を上手く表現したい
とても素敵な記事を読みました。
どうしても、もっともっと知ってほしい気持ち。
伝えたい気持ち。
「ありがとう」
それが自分にもたくさんあることに気付いて、そしてそれを上手く伝えられる人になりたいと思った。
私は長年、接客業をしていた。
上の記事を書いた方のように、私も昔はひどい人見知りで、それは今もそう感じる。
でも、接客業をしていろんな方と話すようになったら、その人見知りも少しずつ改善され、人と話すこと、コミュニケーションをとることが楽しくなった。
それが自分が得意なことだと気付いた。
接客業が自分の天職なんだとさえ思った。
でも、その中で時折見せる『弱い自分』がいた。
人からの心無い言葉に、想像以上に傷つく自分。
それは自分のことだけではなかった。
一緒に働くスタッフがお客さんから浴びせられた「心無い言葉」に傷つき、そんなことを言ったお客さんに「怒り」を覚えた。
傷ついたスタッフを守ってくれない「上司」に信頼がなくなっていった。
私がこのスタッフたちを守れるようにならなければ!
なんだかわからない正義感。
そこで学んだのは
「人は自分がされた優しさを、あえて口にすることは少ない」
でも
「人は自分が感じた嫌な思いを、大きく口にする」
そうクレームというもの。
お客さんは良くされることを当たり前と思うのか、それに対して「ありがとう」さえ言わない人もいる。
でも、自分が何か嫌な思いをさせられれば、すぐクレームという行動に出る。
私はそういう電話の対応も何度もしてきた。
中には仕事中に何時間もクレームの電話で拘束されたこともある。
良いお褒めの言葉をもらえるような、そんな電話を受けたことは一度もない。
どうして人は傷つくことを何時間も話せるのに、「ありがとう」の一言も言えないのか?
そう不思議に感じていた。
ネットへの書き込みもそう。
どうして傷つけるような言葉を簡単に書き込めたりするのか?
もしその言葉が原因で相手の人生を奪うようなことになったら、あなたはどうするのか?
もし、同じことをされたら、あなたはどう思うのか考えてほしい。
がむしゃらに働いていたその頃は、自分でも気付かなかった感情。
自分がすごく傷つきやすい心を持っているということ。
人の言動にすごい敏感な自分。
確かに今考えれば、何気ない言葉にちょっと「ズキッ」とする思いをいつも感じていたなと思い出した。
私が若かりし頃、仲良くなったばかりの女性と食事をした時のこと、そのお店は女性の行きつけだったらしく、私を連れて行ってくれた。
だが、注文してしてすぐ「いつもあるもの」がなかったことに激怒した女性がスタッフを呼び文句を言っていた。
挙句には「私はいつも来てるのよ!」と、「マネージャーを呼んで!」と言い出した。
私はとても恥ずかしかった。
素敵なお店なのに、なんでキリキリ怒るのか。
いつも来ているお店なら、なおさら大切にするものではないのか?
思い返せば、私にしたらぜんぜん大したことではなくて、なんでそんなに怒っていたのか……私には不思議だった。
彼女にとってのプライドなのだろうか?
でも、私には働く側の気持ちもわかる。だから余程のことがなければ怒ることなんてしないし、クレームのようなこともしたことがない。
というか、クレームや怒りを露わにする時間がもったいないとさえ感じる。
昔、主人と旅行に行った先で買ったコンビニのパン。
その中に明らかに異物が入っていた(なんだかは分からないけど)
それをどうする? という話になったけど、主人はそれを届け出ることはしなかった。
「異物が入っていたことを届け出ることは、お店にとっては大切なことだと思うけど、せっかく旅行に来てるのに、そのやり取りする時間がもったいないよね」そう言った。
それは私も同じ気持ちだった。
もし、怒りに任せ怒鳴り込むような人だったら、私は主人と結婚はしていないだろう。
『伝えることはお店にとって改善にもなるし、大切なことだと思う』それを理解したうえでも、『今の楽しい時間を大切にしたいし、優先したい』そう思ってくれた主人の優しい心を感じた瞬間だった。
人は怒りを露わにすることは多いけど、嬉しいこと、感謝したいことを上手く口にすることが出来ない生き物なのだろうか?と思う。
実際、自分もいつもの生活に慣れて、身近にいる人への感謝が足りないなぁと感じることもある。
もっと「ありがとう」を、感動をくれた「何か」に素直に感謝を表せる、そんな人になりたいと思う。
自分の傷つきやすいという「弱い心」を、気付きとして良い方へ転換して、「優しさを多く」届けられる人になりたいと感じた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 夢だった小説家として、沢山の方に作品を読んでいただきたいです。いただいたサポートは活動費と保護犬、猫のボランティアの支援費として使わせていただきます。