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自作自演の劇場に囚われた罪悪感の迷宮

未だ周期的に罪悪感に苦しむ丑婆である。
生きぐせである。
3日ほど続くことがあるというか、3日ほど過ぎると罪悪感の雨嵐は通り過ぎてゆく。

自己内省の成果あり、罪悪感に振り回さされににくなった。
過ぎ去るまで放置する。
長年、罪悪感に苦しんでいる
というか、罪悪感で苦しむことが好きだと自覚した。
自分を虐めることが好きなんだなぁ〜としみじみ思う。

誰に言っても仕方ないが、生まれすぐに、罪悪感をもった。
「生まれすみません」太宰治の真似になってしまうが、生まれて言葉がわからいうちに
感じてしまった最初の罪悪感は、三つ子の魂百までの心境である。
産みの母に捨てられ、アル中の父の暴力と何度も再婚する依存症丸出しの親。

私は生まれこなければ良かったんだと幼い頃に感じていた。

私は愛されない子供である。
と私が私に与えてた、存在価値である。


自分でそのように洗脳してしまったのである。

当時は、あまりにも幼かった為に私自身が私を愛してあげることも出来なかったし、わからなかった。

よくよく内省してみれば、罪悪感という自作自演の演出をしているだけ、罪悪感を持たないと生きた心地がしないから、自分で作り上げているということに気づく。

苦しい気分にならななくては
生きた心地がしないそんな
自分がいるのだ。

苦しくならないと、それはそれで罪悪感を持つ、悲劇のヒロインでいたい。

何故なら、「生まれてすみませ」とキャッチフレーズをつけている自分がいるからだ。

自作自演の人生劇場で罪悪感が自分の存在価値になっている心理がある。

「生まれてすみません」から始まった人生劇場を俯瞰する。

罪悪感が湧いたとしても、今の丑婆は罪悪感に大きく振り回されなくなった。

性格の中に織り込まれた罪悪感は払拭できないことも、よくわかっている。
随分とあがいてきたが、今は自作自演の罪悪感で自分の人格を形成してきたこも熟知している。
承認欲求のなりの果ての罪悪感である。
他者に丑婆を認めてほしいと押し付けて、悲劇のヒロインを演じたい。

他者が丑婆の罪悪感を認めてもらっても、自分の罪悪感など共有できないのである。
他人にとっては、「あらお可哀想に」
あるいは、「あっそ!」でしかない。
そんなことを言っているうちは、他者と人間関係は気づけないのであろう。 
全ては自作自演の劇場である。


罪悪感で自分を惨めにして
苦しさを求めて生きようとしているなと自分を省み、アホくさ〜と苦笑して許す。



幸せになりますように🙏

#人間関係 #承認欲求 #幸せ #存在価値