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シネマ・パレス
気が滅入る日だった。ぼくはその日、この社会と文明が、いかに残酷でどうしようもないものなのかということを思い知った。それと同時に、いかに自分が不器用で、生きるのが下手くそなのかということを、思い知ったのだ。
夕方の街は美しかった。暮れゆく太陽が、高いビルをアルプスの山のように燃え上がらせ、ふと手元から顔を上げる人間たちを、原始の感動に包み込んだ。ぼくは、その都市の美しさがつらかった。自分が、ちっぽけな存在なのかを強調させるからだ。
なくなく目をつぶって、ポケットに手を突っ込むと、冷たい風を切って歩いた。ポケットの中には、わずかばかりの小銭があった。四ドル二十三セント。ぼくの足はもう、ぼうっと艶やかな光を放つ、「シネマ・パレス」へと向かっていた。
シネマ・パレス。たった三ドルの半券を買えば、だれでも王侯貴族になれるところ。炭鉱夫、農夫、銀行員、旋盤工、経理事務員、探偵、乞食に至るまで。ここではだれもが単なる市民以上の存在だ。
白い制服のドアマンは、黄金色のドアーを開け、貴族たちを彼ら彼女らの王国へ導く。ふかふかの玉座は、黄金と紫水晶と合成皮革でできている。そして、王侯貴族を饗応するのは、血湧き肉躍る大冒険と、神話的な愛の物語。彼らの領地や荘園は、銀幕と吹き抜けのロビーに限られてはいたけれども。
ボックスで半券を受け取ったぼくは、もう貴族の仲間入りだった。見上げるぐらい高い天井から下がるシャンデリアが、電球の金色の光を、磨き上げられた床に投げかけた。
ぼくは、その光に導かれながら、「黄金回廊」と呼ばれる廊下を歩いた。両側には、それぞれ五つのスクリーンが連なり、そのそれぞれに貴族たちがひしめきあっているのが見えた。ぼくの王国は、まだ建国を待っているようだった。
「ボンボン、チョコレート、サンドイッチに煙草!」
「コーヒーはいかかです? 紅茶にいたしますか?」
ぼくは、映画館のボーイや売り子たちの声を背中で聞きながら、螺旋階段を登った。流線型のソーダ・ファウンテンは、人でいっぱいで、煙草のけむりがもうもうと立ち込めていた。ぼくは、半券を差し出して、ジンジャーエールを受け取った。ポケットに残っていた小銭を全部出して、ほくほくのホットドッグを手に入れた。そして、一階のロビーを見渡せるカウンターテーブルに座り、窓の向こうの、黄金色に染まりあがる街を見つめた。
ロビーには、低く流れるジャズの調べ。グラスの触れ合う音。遠く、誰かが笑う声。
ぼくはホットドッグを頬張りながら、窓の外の街を眺めた。ネオンが灯り始め、車のライトが金色の筋を描く。通りを行き交う人々は、みな何かを目指しているように見えた。でも、ぼくには行くべき場所がなかった。
ふと、隣の席に誰かが腰を下ろした。
「今宵は、どの王国に?」
すこししゃがれた、でもきれいな声だった。すぐに誰だか分かったけれど、そっちを向くのは負けた気がして、そのままそっぽを向き続けた。
「まだ、決めてないんだ」
「へえ、それはもったいないこと。わたしは決まったけどね。ぜひ、わたくしの王国へおいでくださいますように。すばらしい冒険が、あなたを待っているから」
「でも……ぼくなんかに勤まるかどうか」
「勤まるかどうかは問題じゃない。勤まると思うことが大切なの。それにね……」
ぼくは思わず彼女を見た。そして、その黒い瞳に吸い込まれそうになった。彼女の目は、まるで深い井戸の底のように真っ暗で、それでいて星のように輝いていたのだ。灰色の古い帽子も、すす汚れた作業服も、彼女を王女たらしめるのに必要な小道具に思えた。
「……こんどの仕事は、どう?」
すると、その小さな王女はふっと顔を曇らせて、手元のつぶつぶしたソーダに目を落とした。紙コップをちょっと一口飲むと、ツンとしたふうに向こうを向いた。
「……さいあく。朝は早いし、給料は低いし、冬も暑いし汚れるし。ボスはうるさいし。でも、しかたないでしょ?」
「ふうん……」
ぼくはあいまいに相づちを打った。そして、残りのホットドッグをほおばった。王女は、ふしくれだって、黒い機械油が染み付いた手のひらを、静かにさすっていた。
「そういうあなたは、どうなの?」
「勇敢な騎士団と共に、強大な隣国に対して最後の聖戦を戦ってた。ほんとうにすごかったよ。馬の上から、馬上攻撃をしかけてね」
「うそばっかり。だったらわたしも、摩天楼の屋上から三日月の船にぶら下がって、木星の王子の心を盗んでいたんだから」
「王子はかっこよかった?」
「やだよ。あんな、生っちろいやつ。ひょろながくてさ」
彼女は、わざとらしく背筋をぴんとさせて、おどけたポーズを取った。
「それに、王子ってば、すぐに恋に落ちるのよ。わたしがちょっと微笑んだだけで、『運命の人だ!』ってさ。ばかみたいでしょ?」
彼女は肩をすくめ、くすくすと笑った。ぼくもつられて笑いそうになったけれど、ホットドッグの最後のひとかけらを口に押し込んで、ぐっとこらえた。
「でも、王子の心を盗んだんなら、あとはどうしたの?」
「返したよ、もちろん」
「え?」
「だって、持ってても仕方ないじゃない。王国に持ち帰ったって、きっとすぐにどこかの誰かが落としてくるし。心なんて、ちょっとした風で転がってくものよ」
彼女の指先が、紙コップのふちをなぞった。炭酸の泡が、はじけて消えた。鉢植えの観葉植物が、熱帯かアラブの王国のように青々と茂っていた。貴族たちは次々と押しかけて、ソーダ・ファウンテンはいっぱいになった。王女は、ホットドッグをほおばると、口元についたマスタードをぺろっとなめた。ソーダをぐいっと飲んで、プハーッと息を吐いた。
「……じゃあ、次はどこへ行くの?」
「うーん、考え中。でも、ちょうど今夜、この映画館でひとつ面白そうな話があるらしいの」
「へえ、どんなの?」
「聞いた話だとね、ある小さな王女と、行くあてのない旅人のお話なんだって」
ぼくは彼女の瞳を見つめた。
「それって……」
「ふふ、どうかな?」
彼女はひとつウィンクして、すっと立ち上がる。
「ね、行きましょう。今夜はきっと、いい冒険になりますわ」
ぼくは、ポケットの小銭を確かめた。ジンジャーエールの残りを飲み干した。そして、立ち上がった。今夜は、彼女の王国へ旅をするのもいいかな、と思った。