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ピリオド・メーカー
喧騒の中で三年ぶりに見た友だちの白い横顔は、ランプの青い光に照らされていた。ちょど新年のお祭りで、すずらん通りは参拝客でいっぱいだった。ぼくはうれしくなって、思わず声をかけた。
「やっほー。ひさびさ」
彼は前と同じように、ポケットから白いノートを取り出して、ささっと文字を綴った。
『三年振り?』
「そうだね 進学してから、ずっと寮暮らしだったし、お互い忙しかったもんね」
『ほんとに。君も変わってないようで、安心した』
ブルーブラックのインクは、ゆらゆら揺れるランプの灯りに照らされて、まるで魔法使いの記した年代記みたいに、神秘的に光った。
すずらん通りは、人であふれていて、あかあかとしていた。さっきまで満ちていた重苦しい古い時間は、年明けの花火と一緒にきれいさっぱり流れ去ってしまったようで、街角はおろしたてのシャツのように清々しかった。
石畳にふたり分の足音を、ぱかぺか響かせて歩いた。友だちは相変わらず、あまり口数の多い方じゃなかったけれど、通り過ぎていく屋台やショーウィンドウを吸い込まれるような目で見つめていた。ぼくは屋台で、あつあつの肉まんを二つ買った。友だちは、近くを通った星の子から、白や黄色の金平糖を買った。
「金平糖か。なつかしいな」
『最近、たまに食べるんだ。甘くて美味しいよ』
友だちは、ぼくのおごりの肉まんにかぶりついた。ぼくも肉まんをほおばった。ふかふかと柔らかくて、中はあつあつだった。たけのこやしいたけ、じゅわっとした豚肉。
『あちちっ』
「そりゃあそうさ。出来立てなんだから」
ぼくたちはしばらく口をきかずに、並んで歩いた。白い息を吐きながら、足をすすめるうちに、人通りが少なくなった。空には、星が散らばるようにまたたきはじめていた。広場の方で、笛の音が始まった。つづみの音が、後から続いた。
橋の桁に乗っかって、金平糖をつぶつぶ食べた。川の水は、めずらしく透き通っていた。川底が、月の光で白くぼんやり浮かんでいるほどだった。時々小さな渦が浮かんで、黒く複雑な影模様を描いた。橋の上を通る人はまばらで、みんなマフラーやコートに体をうずめていた。
友だちは、ブルーブラックのペンを少しなめて、ゆっくりと文字を綴った。ぼくは、月明かりに照らされたその筆跡を見つめて、昔のことを思い出していた。海のように波打つ文字は、ときどきたゆたんで、色々な大陸や島を作った。けれども途中で、その海は真下に落ちていってしまった。カラン、と乾いた音が、静かな夜空に吸い込まれていって、創造主のペン先は石橋の上に転がった。
友人は、ペンが落ちた場所を呆然と見つめていた。その表情は、何か大切なものを失ってしまった幼い子供のようだった。そして、主のいなくなった海の上に、もっと小さな海が、クリーム色の紙に落ちた。ぼくは驚いて、新たな海が、灰色の波紋を広げながら紙の大地を侵食していくのを、高鳴る胸の鼓動と共に、見つめていた。
「……どうしたの?」
彼は答えなかった。体を丸めて、静かに涙をこぼしていた。頬はすべらかで、陶器のようだったけれど、涙の粒だけが熱くざらざらしていた。ぼくは、どうして泣いているのか分からなくて、ただ彼が寒そうで、かわいそうでたまらなかった。
「ねえ、どうしたの? どこか痛いの?」
友だちは首を振り、何も答えなかった。それからしばらく彼は泣いていたけれど、やがて泣き止んだ。そして、石橋に転がったペンを、まるで自分の心臓でも拾うかのように、そうっと拾い上げた。
金色のペン先は、ひどく折れ曲がっていた。白い光が、その無惨な金属の先端で瞬いて、消えた。ぼくは何も言えず、水のようにシーンと黙っているしかなかった。何かを思い詰めたようにペン先を見つめていた友だちは、ハッと思った刹那、そのペンを橋の下に投げ捨てた。
「あ!」
トポン、と鈍い音がして、水面に小さな波紋が広がった。すぐに水面は静かになり、先ほどまでの静寂が戻ってきた。しかし、その静寂は、先ほどとは違う、重苦しい静寂だった。ぼくは友人の横顔を見た。彼は、川面をじっと見つめていた。その表情は、何かから解放されたようでもあり、同時に、何かを失ってしまったようでもあった。ぼくは、一体何が起こったのか、理解できずに立ち尽くしていた。彼の口が、声もなく動いた。
『ケッキョクボクハ、ナニモカワッテイナイ』
友だちは、ぼくの手を引いて走りだした。ぼくは少し転びそうになってから、後ろを振り返った。川の色は先ほどよりもさらに深く、暗い青になっていた。底は暗闇に完全に沈み込んでいるようだった。
ぼくたちは走った。息が切れるまで走った。コートをきた誰かと、何度かぶつかった。黄色いヘッドライトの車が通り過ぎて、汽車の遠い火を追いかけた。締まりかけた踏切を駆け抜ければ、街はもうすっかり遠くて、夜空に貼り付けられたポスターに描かれた光の粒のようにしか見えなかった。疲れ切って、どっさり地面に倒れると、とおい笛の音が聞こえるだけの、冷たい雫に満ちた丘の上だった。
友だちは、何も言わずに、ただ膝を抱えて座っていた。ぼくは、彼の横顔を見つめた。その表情は、どこか諦めたように、静かだった。それでぼくも、体の力をすっかり抜いて、星降る空へ寡黙になった。
寡黙な空は、寡黙な返事をくれた。寡黙な風は、寡黙な口笛を吹いた。寡黙な夜が、ぼくたちを静かに抱きしめた。彼はゆっくりとこちらを向いた。彼のブルーブラックの瞳は、長い年月をかけて降り積もった古い土みたいに深くて、触れたら崩れそうだったけれど、同時にやさしくて力強い光を放っていた。
「どうしてあんなことしたの?」
ぼくは尋ねた。ただ彼は、白い息をフウと吐いて、『これでピリオド』とつぶやいた。