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魔法ごっこは、ほどほどに
「ポッター」というのが、僕のあだ名だった。眼鏡をかけた姿が、なんとなくハリーポッターに似ていたかららしい。入学して最初のあだ名がそれだったから、しばらくの間、僕は「運命の子」がどんな気分だったのかを疑似体験することとなった。
「おいポッター、次の数学、小テストあるんだってよ」
「ねえねえポッター、化学のレポート終わった?」
「ポッター、学食行こうよ」
そう言われると、無味乾燥な学校の授業も、なんだか魔法学校の一風変わった授業のように感じられてくる。自転車はホウキ、コンピュータは杖。教科書は牙を煌めかせる魔法書になったし、先生たちは強力な魔法使いに早変わりした。
額にアザはなかったし、「例のあの人」と絡んだ深い過去はないけれど、僕はそれなりに、空想のホグワーツ校を楽しんでいた。
「なあなあ、ポッターくん」
ある日、僕は見知らぬ上級生に話しかけられた。落ち着いた物腰で、二つか三つ上なだけなのに、やけに老けているのだった。
「ふふ、本当に似ているね。あざを描いたら、瓜二つといったところだ」
「あの、どうかされましたか?」
「いやいや、実は君に頼み事があってね」
彼は文化祭の実行委員長だとのことでした。仮装大会を催したいのだが、みんな恥ずかしがって誰もやらない。それで、ぜひ君にハリーポッター役をやってほしい、というのです。
「もちろんただとは言わない」
そう言って、彼は金貨をちゃらちゃらと取り出した。僕は思わず、ほうっとため息をついた。ガリオン金貨だったのだ。マグルの世界で言えば十万円ほどの価値があって、本やコンピュータなんかを買うときなんかに重宝するのだ。
「でも……」
僕は少しためらった。「僕なんか」と言いかけたところで、実行委員長は口元をきゅっと上げて笑った。
「謙遜しないでくれよ。誰だって最初は自分を疑うものだ。でもな、ポッターくん。ホグワーツで『組分け帽子』が言っていただろう? 勇気を見せるのは、自分を信じたその瞬間だって」
僕はその言葉に少し心を揺さぶられた。それに、十万円相当のガリオン金貨もなかなか無視できないものだ。
「……やります」
僕は静かに答えた。
「ただし、衣装と杖はちゃんと揃えてくださいね」
「もちろんだとも」
こうして、文化祭は僕にとってのちょっとした冒険の日となるのだった。
文化祭当日。僕は指定された教室に向かった。
「やあポッターくん、来たね」
実行委員長が僕に声をかけてきた。彼はなんと、あのスネイプ先生の衣装を着ていたのだった。
「先生役は私だ。みんなには『プロフェッサー・スネイプ』と呼ばせることにしたよ」
そう言って彼は笑った。僕はなんだか緊張してしまって、うまく笑うことができなかった。僕は、『プロフェッサー・スネイプ』が持ってきたグリフィンドールの衣装を着込んで、やけにネジネジした杖を手にした。僕は映画の方を見たことがなかったから、衣装を見るのは初めてだった。
「ふふふ、やっぱり似ているね。もう見分けがつかないよ。いやあ、君に叫んでほしいな。エクスペリアームズってさ」
彼はそう言って、僕の肩をぽんと叩いた。
「そんな! 恥ずかしいですよ」
「恥ずかしいって、君はポッターなんだから、恥ずかしいも何もないだろう? もう決まっているんだよ、ポッターくん。君は、ステージで寸劇をするんだ」
「え?」
そんなことは聞いていなかった。ぽかんとしていると、『プロフェッサー・スネイプ』はA4の割に分厚い台本を含み笑いと共に渡してきた。
「さあ、本番まであと三時間あるんだ。覚えてくれたまえ」
彼は、「せいぜい頑張るんだな」とマントをひるがえすと、わたあめを買いにコツコツどこかへいってしまった。僕は彼の背中を見たまま、ぽかんとするしかなかった。
「あ、あの、台本は……」
「え? 覚えているんじゃないの?」
衣装係の女子が冷たく言い放った。
「台本も覚えていないで寸劇ですか? 冗談でしょう?」
僕はどうにか弁明しようとしたけれど、どうやら衣装係の子には嫌われているらしく、ツンとした態度で受け流されてしまった。僕は仕方なく一人でセリフを覚え始めた。時間がないからほとんど丸暗記だ。覚えるだけでも一苦労だった。なにせ、台本を書いた連中は文章がへたくそなのだ。てにをはも構成も、何もかもめちゃくちゃだった。
「おいポッター」
そんな時、誰かが僕を読んだ。知り合いの、ワタナベだった。彼はあろうことか、ロンの仮装をしていた。
「お前、台本を全部覚えたか?」
「え、うん」
僕は台本から目を離さずに答えた。
「期待しているよ。ポッターが主役なんだからな」
「……僕は、何も聞いていないんだけどね」
僕は正直、憂鬱だった。一人で演技をするなんて緊張するし、上手くいく自信もなかったからだ。それに、ロンの格好をした彼が言った「ポッターが主役なんだからな」という一言が妙に耳に残った。
「さあ! いよいよ始まりました! 文化祭メインイベント『仮装大会』です!」
開会の挨拶と共に、わーっと歓声が上がった。そこには、すでに多くの生徒が集まっていて、思い思いの仮装をしていた。「ポッターがやると言った」という宣伝が、思いのほか効果を示したらしい。「えらいことになったなあ」と緊張しつつも、仮装した連中の中に混じってガヤガヤとやった。僕に合わせてか、みんな魔法学校の仮装をしていた。
僕の番が近づくにつれて、手汗がひどくなり、頭の中で必死にセリフを繰り返していた。覚えたはずの台詞が、だんだん霧の中に消えていくような感覚に襲われる。
「次は、グリフィンドールの勇者、ハリー・ポッターの登場です!」
名前を呼ばれた瞬間、会場が歓声で揺れた。心臓が跳ね上がる。ステージに向かう足が重い。
「……ポッター! 君ならできるよ!」
ロン役のワタナベが後ろから肩を叩いた。その顔には、いつものいたずらっぽい笑みではなく、真剣な励ましの表情があった。その瞬間、僕はほんの少しだけ勇気をもらった気がした。
ステージに立ち、ライトが当たる。僕は観客のざわめきの中、深呼吸した。物語は、次々と展開していった。うろ覚えのセリフをなんとかアドリブでこなしながら、僕は杖を振り回し、色々の骸骨や魔物を倒していった。
そしてついに、ヴォルデモート卿との対決シーンになった。LEDの閃光が飛び、ヴォルデモートの杖が弾き飛んだ。ヴォルデモートが後ずさりをする。ここで僕は決め台詞を言わなければならないのだが、緊張のあまり、頭が真っ白になってしまった。やけくそになって叫んだ。
「エクスペリアームズ!」
その瞬間、不思議なことが起きた。体の周りが静電気みたいなもので包まれると、衣装のローブや髪の毛がふわふわ浮かんで、杖を構えた手元がこそばゆくなった。おもちゃの杖の先端がやけに重たくなって、ビリビリと震え出した。静電気にくすぐられて、「くしゅん!」と思わずくしゃみをした時、杖の先から赤い光が飛び出した。
観客席から「おおお!」とどよめきが起こった。その赤い光は、ステージの天井近くに吊るされた紙製の装飾をかすめながら、まるで生き物のようにくねり、会場の上で「バーン」と飛び散ると、火の雨みたいに降り注いだ。
シュポン!
しゅぽん!
シュポポン!
みんなが掲げていたスマートフォンやおもちゃの杖が、一斉にポーンと吹き飛んだ。みんなしばらくシーンとしていた。僕も、なんのことやらさっぱりで、ポカンとしていた。
すると、客席から突然叫び声が湧き上がった。それはたちまち笑い声になり、拍手になった。会場が揺れるような歓声だった。大歓声の中をステージから降りると、ロン役のワタナベが駆け寄ってきた。
「ポッター、最高だったぞ! お前、本物の魔法使いみたいだった!」
「……ありがとう。でも、僕も何が起きたのか分からないんだけどね」
ワタナベが大笑いすると、僕もつられて笑った。なんだか、胸の中がふわふわしていた。
あとで聞いた話だと、ステージの装置の一つが壊れていたらしい。でも、なぜ僕の杖が光ったのかは、結局分からなかった。誰かが冗談で「やっぱりお前、本物のポッターだったんだよ!」と言ったけれど、僕もその時だけは、そう信じてもいいかなと思った。