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ボトルシップの空想
初めて飲んだコーヒーの思い出には、忘れがたい記憶も結びついているものです。父に連れられて入ったお店は、背伸びするにはちょうどいいおしゃれなところで、文庫本片手に長居する客や、難しい哲学談義にふけっている客など、色々な客がいました。
半分地下にあるお店はあちこちが素敵に歪んでいて、遠い昔に使われていたのであろう電話機やアイロン、真空管ラジオに真鍮のデスクライトなんかが、旅人のように眠っているのでした。壁にかかった絵は、異国情緒に溢れた不思議なものでしたし、店の奥にあるレコード棚では、見たこともないレコードたちが、ターンテーブルの出番を待っていました。
私ぐらいの歳の客は他にいないらしく、私は緊張すると共に、秘密結社か何かの仲間になったような気もしてきて、かすかな好奇心と共に、ニス塗りの椅子に腰掛けたのです。父は頼み慣れたふうで、ガラスボールのナッツと二つのコーヒーを注文しました。運ばれてきたコーヒーには、生クリームと角砂糖が添えてあって、なんだかとても大人っぽい感じがしました。
父はいかにもおいしそうにコーヒーを飲みますが、私はおっかなびっくり口をつけたせいで、舌を火傷してしまいました。カップに手を添えてじっとその熱を味わっていると、父と知らない大人の間に交わされる会話が、聞くとはなしに耳に入ってくるのでした。
「仕事の方はいかがですか」
「おかげさまで順調です。雑誌にも取り上げて頂けましたし」
「はっはっは、欧州事業は順調というわけですな」
「恐れ入ります。まだこの業界は新米なもので、色々と勉強させて頂くことばかりですよ」
父はそう言いながらも、ちょっと得意げでした。いつも難しい顔をしている父ですが、仕事の話をし出すと止まらなくなるのです。私は、良いぐらいに冷めたコーヒーマグを、落とさないよう慎重に抱えました。そして、ゆっくりこっくり、渋みと苦味とほのかな甘味が入り混じった液体を味わったのです。
「お、コーヒーとは大人だなあ。おいしいかい?」
「……にがい」
「はっはっは、そうかあ。コーヒーは、もう少し大きくなって飲むと、おいしさがわかるようになるよ」
父は私の頭をわしわしと撫でると、自分のコーヒーをすすっと飲みました。私は、手元のマグカップに入った黒い液体を、じっと覗き込みました。そこには、ふわふわと立ち上がる白い湯気と、見たことのない世界が広がっている気がしました。それは、どこか遠くて、それでも手を伸ばせば届きそうな、そんな気がする不思議な世界でした。
「おっと、そうだ。こんなものがあるんだよ」
父の話し相手の人は、ダークブラウンのジャケットの内側から、手のひらに収まるぐらいの小さなものを取り出しました。
「先日、イギリスに行ってきてね。お土産に何か買おうかと骨董品屋に寄った時、こいつを見つけたんだよ」
机に乗ったそれを見ると、細かい船の模型がガラスの中に封じ込められていました。目のイタズラでしょうか。船は、まるで海を漂っているように、ほんのわずかな揺れを見せることさえありました。父は、しばらくその小さなボトルをじっと見つめていました。
「ボトルシップか」と父は言いました。
「本当に、こんな小さな瓶の中にこれだけのものが……」
私も、そのボトルシップに目を奪われていました。小さな瓶の中で、繊細に作られた帆船が揺れ、船の帆は真っ白に張られ、まるで海の風を受けて進んでいるかのようでした。瓶の中の海は透明で、わずかな泡がその中で波を作り、まるで本当に船が海を渡っているようでした。
「どうだ? ちょっと変わっているだろう?」
私は、しばらくそのボトルを見つめた後、ふと、瓶の中に閉じ込められた船が、実はこの店の中の空気すらも飲み込んでいるように感じました。瓶の中の景色が、まるで外の世界とつながっているかのように、私の心の中に広がっていったのです。私は、そのボトルシップの虜になってしまい、鼻がくっついてしまうんじゃないかというぐらい、ボトルシップをまじまじと見つめました。
「……きれい」
「おお、気に入ったか。いいよ、これは君のものだ」
その人はそう言うと、私にそのボトルシップを手渡してくれました。私の小さな手のひらに収まると、まるで本当に海を持っているかのように感じられました。想像の中で瓶の中の船はゆらゆらと揺れ、波に流されるままに瓶の壁に当たって、コツンコツンと乾いた音を響かせました。
「ねえ、ここにはなんて書いてあるの?」
コルクには、細い飾り文字で短い欧文が刻まれていました。父はそれを手に取ると、「どれどれ」と読み始めました。
「十六時、に、航海、せよ」
と父は読みました。
「どういう意味?」
と私は聞きました。
「さあな。何かのことわざとか警句なんじゃないか? 」
父はそういうと、ボトルシップを私の手のひらに戻し、また難しい大人の話に戻っていくのでした。
家に帰る途中、私はボトルシップを手のひらで転がしながら歩いていました。父の話に戻ることはなく、私はただただその船に心を奪われて,
コルクに刻まれた言葉が気になって仕方がありませんでした。「十六時、に、航海、せよ」。その短い言葉が、まるで何かを予告しているように感じられたのです。
布団に潜っても、ボトルシップは手の中にありました。私は、その小さな船が海を航海する様子を想像してみました。船は、波に流されながらもゆっくりと海を渡り、やがてどこかの港に辿り着くのです。それは遠いアフリカだったり、東インドだったりしました。
ボトルの中の船は、ゆらゆらと揺れながら波に乗り、世界を旅しているように感じられました。私は、その航海がどこへ続くのか知りたくなりました。コルクに刻まれた言葉は、もしかしたらその場所を示しているのかもしれません。
「十六時に航海せよ」と、コルクに刻まれた言葉が頭の中で何度も繰り返されました。その意味がだんだんと明確になり、私はボトルシップを手に取るたびに、何か大きな出来事が待っているような気がしてならなかったのです。
夕刻のコーヒーで熱くなった頭はくるくるまわり、地下鉄のサンドイッチ売りよろしく、しきりにいろいろの空想を持ちかけては、言葉巧みに売り文句を唱えました。私はボトルシップを枕元に置くと、白い帆や大砲をなんかを艤装して、冒険と空想の入り乱れた幻想の海へと航海に出るのでした。
月の光が差し込む中で、うねった布団やシーツは大波へと変わりました。私は、ひやっと冷たい布団に手をつけると、青白い光をキリッと結びつけるボトルシップを手に取って、シーツの大波を航海するのです。私は、その船の中に乗り込んでいました。小さな船でしたから、波に揺れるたびにお尻がもぞもぞしましたけれども、それでも海を渡る喜びはひとしおでした。
「船長! 船長! 前方に、巨大な海獣が!」
「なんだと! 撃て、撃てー」
と、私は言いました。しかし、どんなに大砲を撃っても巨大な海獣には効き目がありません。
「はっはっは。お前みたいな豆粒が何を撃とうというのだ? この俺のことも知らずに、偉そうなことを言うじゃないか」
その大きな海獣は恐ろしい顔をして言いました。私も負けじと言い返します。
「なにを! 私の父だって船長だ。お前のような奴なんかに負けるものか! 総員、たまー込め!」
ズドーンズドーン! 雷もこれほどはというぐらいの、ものすごい轟音が響きました。私は、ありったけの砲弾を海獣に向かって放ちました。しかし、その大きな体には傷一つつきませんでした。
「はっはっは、この俺にそんな攻撃が効くものか」
と海獣は言いました。そして、私に向かって恐ろしい牙を見せながら吠えたのです。
「さあ! 丸呑みにしてやるぞ!」
私は恐怖で震え上がりました。その時です。私の手のひらの中でボトルシップが激しく揺れ始めたのです。みるみる間に、青く白熱していき、マグネシウムを酸素の中で燃やしたみたいに、光を放ち始めました。私は、そのボトルシップをぎゅっと握りしめて、海獣に立ち向かいました。
「はっはっは! この俺と戦うというのか?」
「ああ、そうだ!」と私は叫びました。「豆粒だって戦うんだ!」
そして、私はありったけの力を込めてボトルシップを海に投げ入れたのです。それはまるでロケット花火のように空高く打ち上がり、空中で大爆発を起こしたのです。激しい光があたり一面を照らし出し、私の体は布団ごと吹き飛んでいきました。
「……夕方の魔女だ!」
潮水に溺れながらも、なんとか顔を出すと、一人の水夫がつぶやきました。
「夕方の魔女?」
「そう。夕方になると、物語を語り出すんだ。海を漂いながらね」
「物語を?」
「ああ、素敵な人だ」
確かに、波に隠れて見えませんが、遠くの方からかすかに声が聞こえてくるのでした。ゆったりした語りで、まるで歌を歌っているかのようでした。
「……お母さん?」
気がつけば、海獣はすっかりおとなしくなっていました。さっきまでの荒い波はどこへやら。私は丸太にしがみついたまま、ぼんやりと、夕方の魔女が語る物語に耳を澄ませていました。
十六時、に、航海せよ!
「ああ、そうだとも」
私はそうつぶやきました。