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美食探偵が描いた「絶望」
6月28日に日本テレビ系ドラマ『美食探偵 明智五郎』が最終回を迎えた。コロナ禍で放映された数少ないドラマということもあり、毎週楽しみに見ていた。ドラマでは当たり前なのかもしれないが、この作品も複数の監督が演出を担当していたようで、素人の私が見てもわかるくらい各話ごとに仕上がりに差があった。その中でも菅原伸太郎さんという監督の回が群を抜いて素晴らしくて、それに気づいてからは菅原さんの演出を見るために美食探偵を見ていたと言っても過言ではない。菅原さんの演出じゃない回は冒頭の雰囲気からなんとなく気づいてしまうので、正直なところ、見るテンションもやや低くなってしまっていたほどだ。そんな私だったので、最終話が誰の演出なのかとドキドキしていた。しかし、毎回エンドロールが流れるまで答え合わせはできない。なのに最終話の冒頭、私はなぜだかわからないがこの演出は菅原さん演出だと確信した。もはやファンの勘である。
菅原さんが演出する回はコミカルなシーンとシリアスなシーンのギャップが印象的で、毎度終盤に流れる主題歌 宇多田ヒカルの「Time」の出だしの一音でゾクっとさせられる。その瞬間、漫画原作ゆえのあり得ない設定と極端にデフォルメされた登場人物たちの中に、不思議とリアルな何かを垣間見せられるのだ。脚本は原作に忠実で他の演出家の回と菅原さんの演出の回で脚本家変わっている訳ではない。にも拘わらず、菅原さんの回に限って、サスペンスとしての要素以上の深いメッセージがあるような、不思議な奥行き感が感じられるのだ。最終回では、登場人物全員にスポットが当てられ、そのメッセージが何だったのかが丁寧に説明されていった。特に苺がマリアに殺された(と思われた)シーンでの明智の台詞はわかりやすい。
今ここには絶望しかない。確かに僕は君と出会う前からすべてに絶望していたのかもしれない。自分自身に。この世の中のすべてに。僕が僕らしく生きようとすると必ず世の中のすべてが僕をあざ笑い、僕に背を向けた。お前は変だ。変人なのだと。でも僕はある日そんな僕を力強く真正面から受け止めてくれる相手に出会った。出会えたんだ。ちくわの磯辺揚げだ。ほんのささやかなつつましい食事であっても、この日まで生きてきて良かったと思えることがある。こんな僕でも生きていていいんだと。生きることは食べることだ。食べることで生きる希望が生まれる。それをいつも全身で示してくれていたのが、この人だった。( 『美食探偵 明智 五郎』最終話 明智の台詞)
明智がなぜマリアに惹かれているのか。それがこの物語の大きな謎だったが、このシーンで「絶望」が2人を繋ぐキーワードだったことがわかる。同じ絶望を抱えながらも生きるため「食」に希望を見出そうとした明智と、死と殺人を選んだマリア。これまでに明智の母 寿々栄が、明智には死を選んでしまうような危うさがあると語っていたことからも、明智は心のどこかではいつも死を意識していたに違いない。けれど食べることで踏みとどまっていた。マリアファミリーに向けた「どんな理由があろうとも、彼女はステーキを焼き直すためにキッチンに立つべきだ。人生という名のキッチンに。」という言葉からも、生きることへの拘りが見えてくる。絶望の中にいながらも死を選ぶまいともがいてる明智にとって、簡単に死を選んだマリアはもう一人の自分の可能性であり、そのマリアを助けることは自分を肯定することでもあり、救済でもあったのだ。そういう意味で、明智のマリアへの固執は愛ではないだろう。振り返ってみると、明智が死の危機に直面するのは苺を守ろうとするシーンだけだった。彼の生きる希望である食。それを全身全霊、心を込めて与えてくれる苺は、彼にとって命をかけてでも守らなければいけない存在だった。それは明智の生への執着の表れでもあり、自己犠牲も厭わない愛の表明でもあるのだ。
マリアファミリーもまた絶望していた人たちだ。愛情を込めて作った料理を無下にされてきたからだ。3人が非情な人間ではないことは、最終話のエピソードからも垣間見える。田舎のおじいさんが死んだことを知り号泣する林檎、自分を助けたシェフに愛情を覚えるれいぞう子、マリアを守ろうと懸命なシェフ。みな普通の心を持っているにも関わらず、裏切られてきた不運な人たちなのである。それ故に、最後の晩餐での苺からの叱責は見ていてとても切なかった。自分が与えた愛情を幸運にもちゃんと受け取ってもらえてきた苺と、そうでなかったマリアファミリーの料理人たちの対峙。このシーンは最後の晩餐のメインディッシュを作ったシェフとそれを食べる苺の1対1の対話でもおかしくないが、林檎とれいぞう子の表情を映すことで3体1の構図になり、愛情を持ちながらも不運にも殺人に手を染めることになった料理人の絶望感と、苺の純真無垢ゆえの軽薄さのコントラストがよりはっきりした良いシーンだったと思う。苺の言葉はまっすぐで美しいが残酷に心に突き刺さった気がした。
最終回は他にも名シーンがいくつもあった。例えば、いつもおちゃらけていた高橋がマリアと明智を制止するために拳銃を向けて叫ぶシーン。刑事としての正義感や倫理観と明智への恋心(恋なのか、憧れなのかははっきりと描かれていないが・・・)で、感情がぐちゃぐちゃになる表情にぐっときた。事後シーンで高橋の明智への態度が変わっていることから、それまで苺と同じく無垢の象徴であった高橋も、ある種の絶望(憧れていた明智が殺人犯を庇った事実と、その殺人犯を殺したかもしれないという疑惑)を知ったということがわかる。それにしても、佐藤寛太さんという役者はお芝居が上手だ。小芝風花ちゃんと並んで、今後注目していきたい。
もう一つはシェフの料理シーン。菅原演出回の料理はいつも生々しい。今回のブフ・ブルギニュは美味しそうなのに血や内臓を連想させるような不気味さがあり、美しい表現だった。余談だが、一つ前の回でルシファーが料理に血を吐いて死ぬシーンが私は許せないでいる。(菅原演出回ではない)美食を謳ったドラマで食べ物を汚く見せるなんて……。あまりに露悪的な表現で悪趣味だった。
菅原さん以外の演出家の回は、サスペンスとしてのドキドキ感や漫画原作らしいギャグには笑えたけど、どこか物足りなさがあった。一方で菅原さんはコミカルなトーンを逆手に取り、物語のクライマックスで急転直下のシリアスな演出を取り入れることで、その高低差を使って「絶望」を描き切った。最終回で「Time」のイントロが流れたのは、マリアが崖で涙を流す瞬間だったのも憎い演出である。視聴者全員が苺の明るい笑顔に期待していただろうに、苺のラストシーンはマリアの陰に怯える不安な表情だった。それはつまり、純真無垢な苺も絶望を知ったということではないだろうか。
ここで宇多田ヒカル「Time」のワンフレーズを思い出す。
「溢した水はグラスに返らない 返らない」
「時を戻す呪文を君に上げよう」
一度絶望を経験したら、それ以前の無垢な状態には戻れない。それでも私たちは生きていくしかないのだ。絶望の中の唯一の希望が「食べること」だとこのドラマは教えてくれた。『美食探偵 明智五郎』なかなか哲学的なドラマだった。