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木造について考える

この間、学部時代の同期で集まったとき。友達の家へ向かうバスの中で話をした。僕は卒業制作の初期段階から木造建築を考えていたし、アルバイトでも社寺建築の設計事務所で働いていたので、それなりに木造建築に関する興味はあった。

それを知っていた友達は、僕が院卒後も木造建築を考え続けると思っていたらしいが、僕はキッパリと断って、小さな頃から興味のある高層ビルや美術館・図書館の設計をしたいと話をしてしまった。

だがよく考えてみると、小さな頃からの夢を肯定する理由とは裏腹に、木造建築を否定する理由などない。僕はただ、木造建築が秘める可能性を信じきれていないのだと感じた。この文章では、僕の考えている木造に対するもやもやを可視化することを試みる。

「使う」と「見せる」

CLTやLVLといった大断面集成材を駆使した木造建築は、「建材」としての価値をその「美学」を超えるまでに高められていないと強く感じる。

つまり、コンクリートや鉄骨で主構造を作って内装材として木に見えるメラニン板やベニヤ板を装飾する以上の経済的メリットを生み出せていないのである。木を使うことよりも木を見せることにこだわり、木が持つ魅力を合理性ではなく客寄せパンダとしてのみ吐き出している。

木造にするメリットをCO2の閉じ込めや林業の活性化などといったマクロな価値ではなくもっとミクロな価値に転換することが木造建築業界における大切な布石である。いったん木に包まれる瞬間を想像した感情論を度外視し、真摯に木造が優位性を持てる経済系を考えなければならない。

「CAD」と「BIM」

大工や棟梁さんの中には図面など参考程度にしか受け付けないという方もいらっしゃる。それは暗黙的に培われた経験知に基づいて建物を作り上げていき、基本的に現場合わせのみで完成まで向かう姿勢である。それは特に社寺建築に多く、逆を言えばそういう文化の中に伝統木造建築が継承されてきた。

しかし大断面集成材を使った建築では、現場合わせではなくコンピューター上で立ち上げられた正確な寸法と精度に従って作っていく。それはコンクリートや鉄骨の作ら方に近く、BIMを使った設計ー施工ー構造ー環境設備を一体化した3Dモデルで進めていくことが多い。つまり、既存の木造建築職人はコンピューターと近代型の職人へと代替されたも同然なのである。

テクノロジーが職人の暗黙知を凌駕する。これは数多くの分野で起こりうることだが、実際にここではそういう段階に差し迫っているのである。ここで危機感を迫っても意味が無いが、未だ2D CADでしか設計をしない木造建築界が、巨大建築物においてコンクリートと鉄骨に太刀打ちできるのだろうか。その環境整備はどれだけ進んでいるのだろうか。

「住宅」と「巨大」

木造を考えるときにそのスケール感は外せない。なぜ近年の住宅で木造が多く、巨大建築で採用例が少ないのかは、材料とスケールと構造の適合性による。

フライ・オットーの著書『自然な構造体』ではスケールフリーに構造が増幅できるものではないことを説いている。蟻の脚は縮尺を一定のまま拡大できないし、カラスの羽はその大きさに最適な形である。バックミンスター・フラーのフラードームやフライ・オットーのミュンヘン五輪競技場は卵の殻や蜘蛛の巣に見えるが、それは生物模倣によってではなく、スケールごとの最適化された形態にほかならない。

つまり、これまで培われた木組みや飛檐垂木といった独特な形態をそのまま模倣することに構造的意味はないのである。たとえ建築家のエゴとして、文化的・歴史的アリバイを作りたいと考えても、本来の建築の歴史は常に需要と供給、あるいは構造と形態が一体化していたため、その発想自体が矛盾を招くことになる。

木造にする本質

ここで得られる僕の見解として、木造を使うことそれ自体が目的になるのは過渡期である現在のみであり、CO2排出削減や林業再生などといったマクロな問題意識を通り越したミクロな問題意識に対する解決として木造を考えなければならない。マクロな理由付けはミクロな問題意識を見透かしているだけだ。経済的にも構造的にも、心理的にも木造を採用することの本質を見極めなければならない。

また忘れてならない点として、日本での木造建築を考える上で、僕はいつも木霊(こだま)という単語を浮かび上がらせる。ジブリ映画『もののけ姫』に(あまりにカワイイ姿で)登場するが、日本には古来、山から樹木を取り出して、生活に火を起こし、建物を作り、道具を使ってきた。そしてそれらは常に循環系として、物理的にも心理的にも自然と人間が「ヤマーノラームラ」を形成することで一体化した社会があった。

建築は人間生活の外観。木材使用は、精神性の根源として顕在化される実態なのであって、目的でも手段でもない。つまり、それが木材であるかどうかという表層的な議論を越えて、その材料に木の精霊を創造し、感じ取れるかが木造建築を語る上で大切だと考える。木目が転写されたRC柱にだって木霊は宿るし、CLTのような美観的に優れた(LVLと比べて)パネルにも木霊は宿るのかもしれない。日本建築の伝統が全て木材に乗じて派生してきた歴史を考えると、その息吹を取り戻すのは木霊から始まる新たな論点だと僕は信じる。

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