センスについて
よく考えることの1つに、センスがある。あの人は服のセンスが良いとか、なんかセンス良いカフェを見つけた、とか。そんな使い方で最も揉まれている曖昧なカタカナ語だ。
本来であれば、多様な価値観における普遍的な一般解など存在しない。そんな自明なことは誰もが知っているのに、あたかも誰が見ても良いと考えられるような平均的な美的感性を一括りにして「センス」と呼んでしまう。
だが、その曖昧さを紐解いてみると、もっと深遠な意味が見えてくる。無難にスタバを選び、無難にiPhoneを選択する悔しさは、センスを意図的に噛み砕くことで解消されるのである。
1.センスとは、感覚ではなく文化
まず、センスはラテン語から来た英語である。本義的に、生物学的に訳すと『感覚』となるが、私たちが考えているセンスは文化的側面を孕んでいて、それは『数値化できない事物/現象を言語化あるいは選択する能力』のことである。
感覚としてのセンスは、五感であり、私たちが刺激を通して身を守る生来的に備えた外部センサーとしての機能である。赤いリンゴを見たら赤いと感じ、食べたら甘いと感じ、匂いを嗅いでも甘いと感じる。
一方、リンゴを食べて、それがふじか王林か、ブランドを見分けられるのはセンスの一種である。あるいは青いリンゴと聞いて、ブルーのリンゴをイメージするか緑色のリンゴをイメージするか、そんな選択をするのもセンスに従う。
ここで取り扱うのが後者としてのセンスであることは言うまでもない。マサイ族の視力が良いからといって、彼らにリンゴを見分ける能力が備わっている訳では無い。センスは生来的ではなく文化的に蓄積され得るものだ。
2.センスは知識を前提とする
ここで、センスはどうやって養われるかを考える。そこには2段階あり、①見ている世界に対する情報を感じ取る網の目の細かさ、②入ってきた情報に対して言語化あるいは選択する能力を鍛えることである。
①を通り越して②のみを先走る人々が『センス良い』といった形容詞を使ってしまう傾向にあると思う。私たちが日々膨大に受けている情報に対して取捨選択をしないまま、解像度の低いまま物事を捉えてしまうのである。
わかりやすい例でドイツ御三家の自動車がある。BMW,メルセデス・ベンツ,アウディの各社にそれぞれ車のグレードがある。BMWで言えば3シリーズより7シリーズが高級で、メルセデス・ベンツではAクラスよりSクラスが高級だ。だが車に興味ない人からしたら、まずは「外車」という括りがあり、解像度が上がってもブランドを知ってるだけであろう。
結局、知る人のみぞ知るような世界は巷に溢れていて、その外側にいる人が「センス」という言葉を使ってしまう。ベンツのAクラスよりSクラスの方が「センス良い」と表現する訳だ。
3.感性から美学への昇華
そんな、知識が感性を補完した結果にセンスでは説明し切れない上位世界がある。大阪万博で批判しか出来ないXユーザーを見て、笑う人は笑うし、同調する人はそれまでということだ。
ここはハッキリさせたい。僕自身、大学院まで建築を学んで社会が求めるデザイナー的な建築家像と、建築界隈が求めるソリューション的な建築家像との乖離をヒシヒシと感じた。だが、そこで社会の方に寄り添った建物を作っていたら、それこそセンスの良し悪しという下位世界に戻ってしまう。建築を藝術として、その美学を保つためにも、建築家はセンスの先にある上位世界で設計に勤しむべきだと考える。
そうした時に、感性的な蓄積でしか無かったものが美学へと昇華されるのである。
4.美学はモノか、コトか
フランスの美術家、マルセル・デュシャンは、男性用便器を逆さまにして美術館に出展しようとし、界隈を騒然とさせた人物だ。そこで彼が提唱したかったのは、美学は制作学としてのモノではなく、見る側の感性学に従うコトであるという点だ。
美学はセンスの上位世界にある高尚な学問であるものの、それは知識の蓄積された人が見て、価値を感じるかどうかに依る。良いモノが良い価値を絶対的に持つのではない。
そうした時に思い起こすべきなのが、美しさが善としての響きを持っていることだ。「美」はイタリア語ではbello 、スペイン語ではbelleza、ギリシャ語ではkalos、英語ではbeautyと言う。英語beautyがラテン語bene【良いこと】に語源を持つことと同様に、多くの言語において美とはその性質としての美しさの形容だけではなく、「良いこと・善」の意味も含んでいる。
美しさを極めることは善へと近づくという考え方があらゆる文化圏で同時に見られるのだ。美しさを知らないと善きものかどうかも知らないことになる。マルセル・デュシャンが提示したように特定のモノではなく、普遍的な感受性に対して美しさを定義すれば、私達はより美学を取り扱いやすくなるのである。もちろん、知識を得ることは前提とするが。
5.素材と形、肉体と精神
ここまで美学とは、知識を備えた上で、感受性を鍛えることで知ることができるとわかった。これはセンスという深遠な意味合いにおける①と②のそれぞれを成し遂げたことになる。
ここで、美学を取り扱う上で我々人間が避けては通れない、美学の身体性について考えてみる。
アリストテレス以来の西洋哲学においては、「素材と形」という構成が基本にある。例えばレンガは土と四角であり、人間は肉体と精神である。
哲学者ヘーゲルは、美を「理念の感覚的顕現」と呼んだ。目で絵画を、耳で音楽を聴きつつ、そこに精神的なものを捉える時に美が現れてくる。つまり、美を体験することは精神と肉体からなる人間の存在のバランスを回復する効果があるとヘーゲルは考えたのだ。
だがここで取り上げたいのはそんな高尚な話ではなく、もっと身近な話だ。
よく野球選手がファウル線ギリギリのボールを打ったとき、ホームランポール内側に入って欲しそうに体をよじることがある。それは、精神に対して身体が呼応している様相である。つまりそこでは、「素材と形」という1つの構成が如実に顕現しているのだ。
精神に対し、しなやかに応答する身体が私達を構成することで美学を捉えるための感受性が養われるのである。リズムとは身体の呼吸で、イズムとは精神の鼓動である。即効的な直感と論理的な思想。この振り子運動で美学がブリコラージュされ、より強固なセンスを養うことができる。
※下位世界=センスの良し悪し、上位世界=美学である。分かりづらいが、下位→上位へ移行できるスキルのことが一般的な「センス」という単語に集約されているので、そう読み変えてほしい。
6.なぜセンスが必要か
それでは、この現代社会においてセンスを得ることは必要なのだろうか。別に、周りが使っているモノ、流行しているトレンドを追っていれば共通の話題は出来るし、それなりの愉しさは担保される。そのただ中においても、センスはどのように必要とされるのか。
山口周氏の著書「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか」がベストセラーになった。そこで書かれているのは大きく3つ、①アートで導き出される世界観はコピーされない②世界の市場は自己実現消費へとシフトし、美意識を判断基準とする③明文化された法律だけでは倫理を踏み外す可能性があり、確固たる判断基準が必要である、ということだ。
つまり、いまの社会で自分の意思をもって生きていくために美意識が必要なのであり、それを判断するためのセンスが必要なのである。会社経営の最終的な判断基準を数字などの論理ではなく、社長自身の直感に従うことが現代においては有効なのだ。
それは個人体験においても同様で、様々な情報や物に溢れている社会で何を信じるか。その拠り所としてセンスがある。だからこそ、「センス良い」という形容詞の先にある解像度の高いセンスを鍛えるべきなのである。
7.センスの振れ幅
冒頭に述べた、センスという単語の曖昧な使われ方の理由として、各々が持っているセンスの振れ幅は否めないだろう。人それぞれ経験してきた道筋が違うし、成し遂げてきた肩書きも違う。そうした中で、センス(知識を得た上での上位世界の美意識)が許容できる範囲も異なって当然だ。
その振れ幅の許容範囲を緩くストライクゾーンとして抑えているのが、社会で売れる商品やサービスになる。だからこそ、安定した形態と攻めすぎない色彩のモノが、人気となるのだろう。
8.オリジナルは複製の再認
では、センスがあればオリジナルを見分けられるのだろうか。恐らく、その能力は格段に高まるだろう。高輪ゲートウェイ駅を見て、建築界隈の人ならばメラミン板に包まれた空間構成を簡単に見分けられるし、舌に肥えた人ならば牛肉の産地を聞かずとも当てられる。
だが、現代ではオリジナルなものが高い価値を有している訳では無いことにも着目しなければならない。大谷翔平というオリジナルは、テレビやスマホで見る複製された体験が先に来る。モナ・リザだって、複製で散々に目をこしらえた上でルーブル美術館に訪れる。オーロラだって、複製された映像を見て本当に存在することを再認識しに行くようなものだ。
だからこそ、センスに従って複製とオリジナルを見分ける能力よりは、その複製されたものに美意識を感じ取る能力の方が大切になっている。それは全く否定できる価値観ではないと、僕は思う。オリジナルより複製の方が社会的な価値を有しているのだから。
9.センスを大切に
こうして様々にセンスにまつわる周縁的な要素を書き連ねてきた。センスとは、人生観の顕在化であり、生きてきた社会の裏返しである。
最近だと血液型やMBTI診断のような、何かしらの型に当てはめるような傾向が多い。だがそれは、その人のセンスを無下にパターン化して4個あるいは16個の人間に還元しているように見えなくもない。
私達は皆違うセンスの中で、共通の価値を認め合うことが出来る。自分のセンスを大切にするために、知識の習得と美意識を鍛える努力をするのが賢明だろう。確固たる自己とは、そのようにして生まれ出る。