国産車について思う事
イノベーションが起こるとき,最も大きな障壁は何だろうか.
結論から言うと,それはユーザーであると僕は思う.ユーザーが今までのルールに捕われすぎて革新的なモノやサービスに順応できず,迫害しようとする姿勢があるのだ.そしてその姿勢こそが暗黙的で連綿に水平展開してあるコミュニティ内で共通の文化や風土を生み出し,より革新の障壁を高くしていくのである.つまり,生み出す側が使う側のニーズに合わせざるを得なくなり,イノベーションは内省的な解決手法を超越しない限り起こり得ないのである.
分かりやすい例として,電気自動車の作り方があろう.例えばテスラやBMW,現代自動車などのEVでは,ワンペダルドライブが可能であるが,日本車では安全性の問題から採用されていない.実際には日産のNOTE e-powerが採用していたものの,ブレーキランプが付かない,停止時にブレーキを踏まなくなる等の問題から廃止されたのである.上述の海外メーカーはいとも簡単にそれらの問題をソフトウェアで解決したにも関わらず,日本車メーカーはユーザーの既存の価値観に合わせて作ろうとするが故にそういった解決に及んでいない.
例えばLEXUSという車ブランドは,日本が誇る最高峰の美意識と技術,安全性の象徴だ.だが,その価値基準をユーザーに合わせざるを得ないが故に,新しいことに足を踏み入れる合理性がないのである.日本が50年近くの間で築いてきた車大国としての自信と誇りが,イノベーションへの弊害として重くのしかかっている.
テスラが安全な車でないとは言わない.実際にテスラのモデルYは事故発生時の自動車安全テストでは最高ランクであるし,ソフトウェアアップデートで今後いくらでも進化できる点においても,安全性の基準すら上がっていくことは間違いないだろう.しかし,スバルの開発チームが掲げている「0次安全」やマツダの「人馬一体」のような設計がテスラにおいて為されていないことは,既存ユーザーの使い勝手にアプローチしていない点で明白であろう.今までの価値観から完全に切り離されたモビリティ内で,人と車は一体感を保てないからである.
だが,実際にユーザーはそこまでアホなのであろうか.僕はそんなはずがないと思う.人間の順応能力は車の仕様が変わった程度では揺らがない.むしろ,AIやスマホ,ネット銀行を使いまわしている現代人は,より順応能力が高いはずである.となると,少なくとも日本車メーカーが目標にしている古いニーズに基づく安全性や使い勝手は,作る側の幻想から生み出されているのではないだろうか.
エアコン操作は物理スイッチでないと危ないのか.スタートボタンは必要なのか.シートベルトの差込口は赤色でないといけないのか.そういう当たり前を疑って,新しい世界を志向しない限り,未来は明るくならないだろうし,人類史を思い起こしても世界を変えてきたのは常に新参者である.文化や風土を疑って,破って突き抜けていくこと.それこそが日本の自動車メーカーに今必要な姿勢なのではないだろうか.
もう一つ.ガソリン臭く,クールなスポーツカーを作れば若い人が車に飛びつくなんてものは幻想であるか,限られた一部の人に限った話である.SDGsに関心があるとかないとか以前に,環境に良いということがスタンダードな時代にそこから逸脱した車に乗りたいと思うことはそう無い.例えばフェアレディZのシャーシにe-powerを積むだけで売れ行きと客層も大きく変わるだろう.
…というのが,車好きの僕がここ最近考えていることである.