内橋克人さんのこと
秋分の日は、嬉しい週中のお休みだった。
のんびり朝ご飯を作って、さて食べようかと座ってテレビをつけたら、NHKが先日亡くなられた評論家の内橋克人(うちはし かつと)さんの特集をしていた。
その中で、10年前に内橋氏が語っていた言葉が、まさに今の時代に誰もが考えなければならない課題のように思える。
御上(オカミ)の言うとおりに生きて行けば
私たちの暮らしは
戦前と全く変わりの無い暮らしになる
戦争が終わり、高度成長を遂げ、社会が成熟すれば国民は賢くなって、自分の力で生きて行けるだろうと思っていただろう。
しかし、いつまで経っても生活は楽にならず、それどころか貧富の差がどんどん広がっている気がする。
さきの戦争から75年も経ち、みんな平等に学校で勉強することが可能になっているのだから、私たちはもっと経済や政治を勉強しなければならないと思う。御上から言われるままでは自分や家族を守れないんだと、誰もが気付かなければならないと思う。
私が地銀に就職したのは、昭和55年。
初任給は7万円で、青果市場に勤める3つ年上の兄の2倍以上あった。
しかし、銀行に出勤するのに1時間に1本しかない長崎本線で諫早まで通うのに、ミカン畑の中の実家から毎朝6時に父親に車で送ってもらって、なんとか朝8時の出勤時間に間に合うという感じで、仕事終わりにどこかに飲みに行くとか寄り道するとかには程遠い生活だった。
銀行の窓口は午後3時に締まるが、締め後の仕事が定時の5時になっても終わらず、残業になる事が多かった。
父親に迷惑をかけまいと、夏のボーナス20万円で自動車学校に通い始め、なんとか仮免試験にこぎつけたが、試験の日に銀行の親睦旅行と重なり、私は旅行に行かずに仮免試験を受けに行った。
仮免試験には無事受かったが、銀行よりも自分の都合を優先したと取られ、私は父親から銀行を辞めさせられた。
家を出て福岡に就職しようと受けた情報処理会社の入社試験で採用となったが、勤務場所は東京になり、わずか一週間の準備期間で上京し、会社の寮に入った。
当時花形産業だった情報処理会社の漢字入力業務は飛ぶ鳥を落とす勢いで業績を上げて行き、毎日のように残業が続いた。
官公庁や銀行と違って残業代の頭打ちが無く、月40時間から100時間の猛烈な残業で、30万から40万の収入があった。
田舎の兄達とは、給与額を言うのを躊躇うくらいに差があった。
しかし、主婦生活15年のあと社会に復帰しようと再就職の就活を始めた時、50歳を過ぎようとしていたこともあり、派遣に登録して800円から900円の時給で日雇いの仕事を分けてもらうことしか出来なかった。
60歳になると派遣法の改正で、同一世帯の家族の年収が500万を越えないと日雇い派遣が出来なくなり、低時給の日雇いすら仕事が出来なくなった。
致し方なく、割と高時給だと思うコールセンターで、本当はやりたくもないインバウンドとアウトバウンドの仕事を約5年間続け、なんとか生活してきた。
やっと息子が就職して5年経ち、なんとか世帯収入が500万を越えたので、また短期派遣(日雇いに近い派遣)で収入を得ることが出来るようにはなった。
高度成長期には頑張ればそれなりになれたが、今は無事生活さえできれば御の字と思うしかなさそうだ。
息子や今から社会で戦うことになる若者たちに、なんとか夢のある時代が訪れてくれることを、切に願っている。
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