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かっこいい大人に憧れた ―自分のやりたいことがわからなくて悩む若者に伝えたい、陶芸家・奥野宏さんの話―
聞き手:豊泉元歌
話し手:奥野宏さん
※聞き手はー○○で記載
>奥野宏さんのプロフィール
陶芸家。1984年、岐阜県生まれ。愛知教育大学で陶芸を学び、多治見市陶磁器意匠研究所という研修機関へ進学。卒業後すぐにメキシコへ渡る。10年間メキシコで陶芸をし、2020年から長野県木曽郡大桑村で地域おこし協力隊をされている。
【自分のやりたいことはなんだろう】
ー現在はどんなお仕事をされていますか。
去年から大桑村の地域おこし協力隊をしていて、木工の見習いや村の土を使った焼き物の研究をしていました。大桑村は縄文土器が出土している村なので、今年一年は特に、大桑の土を使った焼き物を「大桑焼」と名付けて、陶器や土器を作っています。
ー木工もされているんですか。
はい。小学校の木工教室でコカリナという笛を作るお手伝いをさせて頂いたり、木のパズルを作ったりしています。それから、村の大工さんに教えて頂きながら古民家の解体をしているのですが、そのときに出た廃材を利用して村の木工品や大桑の焼き物を展示するためのギャラリーを作るなどもしています。
ーさまざまなことをされていらっしゃるんですね。
それではさっそく、奥野さんの人生談などをお聞きしていきたいのですが、中高生のころの生活の様子や進路決定について教えてください。
中学生までは、サッカー少年でした。学校のテストはかなりできた方だったのですが、地方の学校だったこともあって、僕は井の中の蛙だったんです。絵や物を作るのが好きだったので、普通科に加えて美術科もあった岐阜県の加納高校に進学したんですが、高校は同じくらいの偏差値の生徒が集まるのでテストの成績も下がり、テスト勉強にあまり身が入らなくなってしまいました。それで、授業や文化祭に欠席して、バンドをしたり、親に頼んで「俺の道」という本を買ってもらったりなんてこともしていまして、そのときは、自分のやりたいことはなんだろうと思っていました。
ー 自分のやりたいことはどのように見つけていったのでしょうか。
自分のやりたいことを漠然と考えていたとき、幼いころからモノづくりが好きだったので、ものづくりを仕事にする方法はないかと考えていました。プロダクトデザインを学べるような美術大学へ行きたいと思っていたんですが、偏差値や学費などを勘案し、ガラスや陶芸、金工や機織り、染色やデザインなどを学べる愛知教育大学を受験することにしました。高校3年生の頃に受験を決めたので、3年生の一年間は、母親が習っていた水彩画教室の先生にデッサンを教えてもらって、実技の試験に向けて毎日練習していました。そして、なんとか大学に入ることができました。
ー大学ではどのようなことを学ばれたんでしょうか。
造形文化コースだったんですが、1、2年生の頃は、造形・ガラス・染色・金鉱・デザインについて基礎的なことを学びました。陶芸の授業では、土の塊を100個くらい握って、その中から自分の好きな形を理由付きで5個くらい選ぶといったこともしました。
ーその授業、私も受けてみたいです。(笑)
他の授業では、ヨーロッパの手仕事や柳宗悦 (やなぎむねよし) の民藝の歴史なども学び、徐々に陶芸に興味が深まってきて、大学3年生のときに、日本は六古窯が有名ですが、東北以外の焼き物の産地を車中泊しながら回ったんです。
ーすごいですね!車中泊で回られたんですか。
大学卒業後は進学をされたんですよね。
陶芸に魅了され、どこかでもう少し学びたいと思っていたときに、大学で陶芸を教えてくださっていた中島春美先生に、多治見市の陶磁器意匠研究所を紹介していただいたき、進学しました。
ー意匠研究所を卒業された後、メキシコで10年間陶芸をされていますが、メキシコへ行かれたきっかけは何だったのでしょうか。
メキシコのトルーカ陶磁器学校で手伝いをする人を募集していたんです。僕は単純に「メキシコ、面白そう」って思ってメキシコへ行くことを決めました。(笑)
ー大胆な決断ですね。(笑)
そうですね。20歳のときに一人でジャマイカへ旅行したことがあって、メキシコは中米でジャマイカのあるカリブ海から近いし、楽しそうって思って。(笑)
ーメキシコには10年間も滞在されていたんですよね。
そうです。2009年の一年間は、メキシコでスペイン語を学びながら奨学金を頂いて生活していて、その後はメキシコで知り合った建築家アーティストと出会って、そのつながりで日本食レストランでアルバイトなどするなどして生活していました。もう少しメキシコにいたいなと思っていたときに、ちょうど日本とメキシコの国交400周年記念だったので、メキシコに住む日本人芸術家の展示会の企画が持ちあがり、僕はその企画を手伝わせて頂きながら、現地の方とのご縁をいただき、2012年にメキシコシティで友人と一緒に陶芸メインのアートスタジオを始めました。
2014年くらいからギャラリーの展示会や注文をもらって陶器を販売するなど、陶芸の仕事だけで生活できるようになってきて、やっと軌道に乗ってきたかなと思っていた頃、2018年に娘が生まれ、子育ての環境を考えて日本で生活できる基盤を整えたいと思い、大桑村の地域おこし協力隊のお仕事も頂けたこともあって、日本へ生活し始めました。
現在はメキシコを離れていますが、今も友人とメキシコの工房を運営していますし、大桑村で作った陶器の作品をメキシコのギャラリーに送るなどしています。感染症などの影響次第ですが、将来は大桑村とメキシコシティの2拠点生活をしたいと思っています。
ーその2拠点生活はかっこよすぎますね。
【かっこいい大人がいて、僕もこんなふうになりたい】
ー 陶芸に夢中になったきっかけは何かありましたか。
幼いころは泥遊びが好きで、よくつるつる団子を作ったり、広告の裏に絵を描いてオリジナル絵本を作って遊んだりしていました。陶芸に興味を持ったのは、NHKの番組で陶芸特集がやっていて、難しい顔して陶芸をしている変わった雰囲気のあるおじいちゃんが妙に印象に残っていたり、大学3年生の夏に東北以外の日本の焼き物の産地を旅行したときに、村久木さん*という陶芸家さんに出会ってその人の生き方が面白いなと思ったりしたことがきっかけだと思います。
村久木孝志さん*は、萩焼きの13代兼田三左衛門氏に師事。平成に入り九谷焼の道へ。松本佐一氏と人間国宝の徳田八十吉氏に師事して、2003年に独立。石川県に「むら工房」を開く。現在は鹿児島県串良町柳谷にて陶芸工房を開く。
あと、僕は料理が好きで、料理を載せる器を自分で作りたいと思ったこともきっかけですね。最近作っているお皿は、妻に「重すぎて使えん」って言われちゃってるんですけど。(笑)
ー そうなんですか。(笑)
ー村久木さんが面白い生き方をされていたとのお話でしたが、どんな生き方がどのように面白いと思われたんでしょうか。
とにかく自由だなと。当時、村久木さんは石川県の小松市に住んでいて、僕が初めて村久木さんにお会いしたとき、いきなり素敵な湯呑をくれて、「これから焼きあがった陶器を居酒屋に納品するから、一緒においで」って言われて。他にも、村の子どもたちが村久木さんのところへ遊びに来ていて、そこで陶芸教室をしていたり、当時は珍しく、野外フェスでろくろの実演をしたりしていたんです。そんな村久木さんのぶっ飛んだ仕事っぷりにやられてしまって。(笑)
ーいやぁ~、たしかにいい意味でぶっ飛んでますね。(笑)
それから、村久木さんの家の前に畑があって、採れたての野菜を使って朝ごはんを作ってくださったんですよ。「時間に余裕があって、いきなり来た若者にもやさしくて、面白くて、素敵な人だな」と。ものづくりの中でも陶芸家という生き方に惹かれました。
ー奥野さんの言葉から、村久木さんが一人一人を尊重される感じが伝わってきます。
その村久木さんがこの人面白いよって紹介してくださった陶芸家さんが鯉江良二さん*です。出身は焼き物の産地である愛知県の常滑市なので、子供のころから土管作りなど焼き物作りをされていたそうです。社会で高く評価される茶碗などを製作されながらも、メッセージ性のあるチェルノブイリシリーズの作品も製作されていらっしゃいました。そうやって、自分が何かを表現する媒体として土って面白いんだなんてことを思いました。
鯉江良二さん*は、1938年、愛知県常滑市出身。常滑高校窯業科を卒業。タイル工場に5年間勤めた後、1962年に常滑市立陶芸研究所に入り、66年に退所、独立開窯した。陶芸の枠を超えた先鋭的な表現で知られる。2020年8月6日、咽頭がんのため死去。
ー出会う方々に影響を受けて、陶芸家を目指されたんですね。
そうですね。考えがあったというわけではなく、「かっこいい大人が周りにいて、こんなふうになりたいな」と思っていて、さまざまな縁で、自分が面白そうだなと思った方へ行くことを繰り返して、今に至ります。(笑)
ーそうやって出会った陶芸家に憧れてご自身も陶芸家になられた奥野さんは、自分自身のことをどんな人だと思いますか。
日本だと陶芸家や画家、などのように分野を分けることが多いけれど、メキシコだと陶芸やるしラジオでも喋るし、ギターも弾くし絵も描くし、料理もするなどのように分野にとらわれずに自分の興味のあることを仕事にしていくことも珍しくなかったように感じています。
日本で意匠研究所を卒業してすぐにメキシコへ渡ったので、そういう生き方をしている友人と出会うことで、僕も絵を描いたり、ギャラリーを開いてイベントをしたり、自分の興味のあることを仕事につなげていきやすかったです。展示会で、DJをしている友人に音楽を流してもらったり、料理人の友人にタコスを作ってもらったり、酒造家の友人にビールを出してもらうなど、それぞれの得意技を活かしていって、お金も回っていったらいいよねということを自然にやっていて。
ー得意技、なんだかいい言葉。(笑)これからはますます自分の得意技を活かして仕事をしていく時代になりそうですね。
陶芸もやっているんですが、現在は陶芸以外にも木工品を作ったり、有機農業も始めようとしたりしていて、ジャンルレスな(分野を問わない)活動をする人になりつつあるのではないでしょうか。
ージャンルレスな人ってスペイン語でGente sin géneroって書いてセンテシンへネロって言うみたいなんで、奥野さんが今後あなたは何者かと問われたときに答えるいい略語を真剣に考えてみたんですけど、上手いのが思いつきませんでした。(笑)
お気持ちだけ受け取らせて頂きますね。(笑)
ー ジャンルレスに活動されていらっしゃる奥野さんにとって、陶芸の魅力は何でしょうか。
器を介して料理人や華道家などさまざまな分野の方とつながれることや、工芸品や美術品など表現の手段としての幅の広さ、炎で焼くことによって予期せぬ表情がみられるという陶芸の過程が魅力的です。
ーたしかにさまざまな魅力がありますね。
【世界は広くて、どこかに気の合う人がいる】
ー創作について、何かを組み合わせて作っているのか、目に映る模様からイメージしたものを即興的に作品にするのか、全然別なのか、どのように発想して陶器を作られているんでしょうか。恐らく毎回同じではないと思うのですが。
2匹の熊を描いた湯呑を製作したときは、檻につかまっている小熊を見たときに、「かわいい」という印象や、麻酔銃で打たれてぐったりした熊の様子、捕まっていた熊がお腹すいていたときどんな顔してかなと想像するなどして、それを覚え書きするように描いたような気がします。覚書きのイラストを売ってるのかって思われたらちょっと印象良くないかもですけど、あの、雑に描いているとかそういうことではなくて。(笑)
ー ははははは。(笑)大丈夫です。真剣に覚え書きしていらっしゃるんですよね。
自然に出る土の模様とかが顔に見えるなというように、瞬間的に思いつく模様もありますよ。
― なるほど。
ー 最後に、進路選択で悩んでいる中高生に対して伝えたいことはありますか。
受験勉強だけが全部じゃないし、本当に自分が楽しいなと思うことをなるべくいろんな手段を使って、やりたいことをなるべく長く続けていけばなんとかなるよと伝えたいです。テストの結果がだめでも、死なないので。(笑)
自分の好きなことが見つかるといいですね。
世界は広くて、言葉が通じなくても、世界のどこかに気の合う人がいるということを僕はメキシコへ行って実感したので、今いるところがつまらなかったり大変でも、そこだけが自分の世界じゃないよって伝えたいです。なるべく好きなことを見つけて続けていけたらいいんじゃないかなと。僕は今37歳ですけど、好きなことを続けていけてます。
ー好きなことを仕事にした方がいいと思われますか。
そうですね。好きなことをやっている方がストレスも溜まりにくいだろうから、健康的にもその方がいいと思います。サボったらその分自分に返ってきちゃうし、やるかやらないかを含めて全部自分で決めないといけないので、そこは大変ですよ。でも、楽しいです。
ー 奥野さんから楽しさが伝わってきます。奥野さん、最後に言い残したことはありませんか。
いっぱいあります。
ーいっぱいありますか。それでは第2弾を始めましょうか。(笑)
まとまらずにすみません。(笑)何言ってんだと思ったことがあったら、メールください。(笑)
ー わかりました。それでは、メールアドレスを教えてください。うそです。(笑)
本日はありがとうございました。
---奥野宏さんについて、もっと知りたい方へ---
1984年 岐阜県本巣郡北方町出身
2002年 岐阜県立加納高校普通科卒業
2007年 愛知教育大学造形文化コース陶芸専攻卒業
2009年 多治見市陶磁器意匠研究所技術コース卒業
2009年~2020年
メキシコシティで活動
メキシコ陶芸アートスタジオTaller・monorojo(タジェール・モノロホ)メンバー
2020年 長野県木曽郡大桑村 地域おこし協力隊(陶芸・木工)
奥野さんのFacebookアカウント▶https://www.facebook.com/hiroshi.okuno.79