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できないの裏返し

子供の表情を見落とさなかった。それは、大人といるときは、人の顔色を伺うことだから、自分はどうしてそんなに人の顔色を伺ってしまうのだろうかと自己否定的な感情を抱いてしまう。

でも、昨日、私は子どもの(もう、やめて。気持ちがいっぱいいっぱいなんだ。)の声を表情や行動から察することができた。

自分の気持ちは口に出して言えば良いじゃないかと思うかもしれないし、そうしたほうがよい場面があると思う。でも、感受性が豊かで周りの人に優しい人って、この人がなんか気持ち的にやばそうだなってことを察するセンサーみたいなものがものすごく優れている。そのせいで、あの人はきっとこんな気持ちなんじゃないかというのがすごくよくわかるんだ。

昨日はそのセンサーが働いた。

具体的な内容は本人や周りの人に了承などを得ていないので言えないけれど、走順の記録を取ることを一所懸命やってるのにどうしても速くできない子どもがいて、その子は、最後に別の先生から極めつけの一言を言われてしまっていたときだった。

2人ないし3人がそれぞれの言い方をしてきたからなのか、色んな先生にこうやれば良いと言われたけれど新しいことをできるようになるまでに時間がかかってしまうのか、とにかく一つ一つちゃんとやらなきゃいけないと思ってしまうからなのか、

私はそのいっぱいいっぱいになってるときの子どもに声をかけた。どんな言葉をかけようかなんて考える間もなく、「すごく一所懸命にやろうとしていたんだよね。あなたは何も悪くないよ。一所懸命やろうとしていた気持ちはとてもよいことなんだよ。こんなことで自分はだめだなんて全く思うことないんだからね。大丈夫だよ。」と言っていた。

子どもは私の話を聞きながら目に涙を浮かべていた。

別の先生からの極めつけの一言を、その子どもの代わりにまるで私が言われたかのように感じて、そのときにかけてほしい一言、自分の気持ちを落ち着けたいときの一言を言っていたことに、子どもに言葉をかけた後に気づいた。

あー、そうか。私は相手の気持ちを言動、とくに表情から察してしまう能力は、優しいとか、感受性が豊かな子どもとかの気持ちを察したりわかろうとしたりするときにすごく役に立つかもしれないんだなと思った。

もちろん、その子が感じた気持ちは全く同じではなかったと思う。でも、多少は同じ部分もあったのではないかとも思う。

自分がフォローした話をしたいのではなく、私やその子が発揮できる能力は、いわゆる偏差値が高いとか、さまざまなことをある程度の速さでまんべんなくできるとか、そういうことではないんだということ。相手の気持ちがわかるとか、一つ一つ丁寧にできるとか、与えられた役割を自分の持つ力を使って手を抜かずにちゃんとやろうとすることとか、それらは偏差値などとは全く性質の異なる能力なんだということ。
能力は場面によって、必要とされるか(そして評価されるか)どうかの違いでしかないということ。

学校という子どもにとっては唯一であるような感覚のある社会で生活する子どもたちに、このことをもっと伝えていってもいいように思った。