2023年観劇活動まとめ
今年もたくさんの芝居を観ました。
去年より明らかに観劇ペースは落ちており、せいぜい30本ぐらいか、という体感だったのですが、実際全くそんなことはなく、昨年+1本で51本でした。厳密には一公演に複数演目が含まれる場合や、これ演劇か?というのもあったりする(M-1みたいに)のでカウントが難しいところですが、ペースとしては週一弱のペースを保っていたことになります。
初の舞台監督への挑戦もありました。
「社会性がある」という一点のみでお声がけ頂いた感がありつつも、それなりに自分は仕事ができるらしい、ということが再確認できるよい機会だったなと思います。演じることが好き、という演劇人はよくいますが、自分は単に演劇が好きで、その距離感にはあまりこだわりがないということかと思います。
演劇コンクールに初応募したりもしました。
下記見たまんまですが、冗談みたいなコンクールの最終選考に残りました。先輩に言われて初めて気づいたのですが、やけに嬉しかったのを覚えています。第2回は負けません。
2022年実に15本観ていた平原演劇祭は、2023年は7本というところで、あれはどちらかといえば散歩ですから、純粋な観劇本数は去年より幾分伸びていることになります。
特に頑張って観劇していこうという心持ちでもなかったので、これが自然なペースということなのかもしれません。ちなみに貯金は驚くほど増えていません。
演劇の見方
観劇全般の話となりますが、昨年と比べて変化したポイントとして、諸々解像度が上がってきたなという感覚があります。すなわち言語化できる形に落とし込める割合が増えてきたといったことです。
これは数見てきたからなのか、感想を言う機会が増えたからなのか、あるいは社会人生活も3年目に入り、コミュニケーションスキルが向上しているということなのか、どこに起因しているのかはわかりませんが、どうあれ
・面白い
・面白くない
・よくわからない
の線引き、特に「よくわからない」と「面白くない」の線引きがより明確になってきたというのがあります。
誰しも面白い作品を作ろうと演劇制作を始めるわけですが、残念ながら出来上がるものには面白いものと面白くないものがあります。
面白い人、面白くない人、面白い劇団、面白くない脚本、そういった区分けもないとは言いませんが、面白い人が面白くない作品を作ることもあれば、面白くない劇団が何らかの境地に到達して面白くなることもまぁあるわけで、より素直に作品一つ一つに向き合うようになった感もあります。
面白い、という曖昧な表現を軽々しく使いますが、人の価値観はそれぞれです。ここでは当然に「松田が面白いと思うもの」を意味します。何が面白いか、というのは人それぞれですが、面白い、というものの構造は人によって差がないはずなので、観劇沼に浸かってみた一つの成果として、今回は面白い、と感じる構造を紐解いていければと思います。
表現活動の構造化
まずは脚本・演出家が表現したいものがあります。
これがどれだけ正確に観客に伝えられるか、が表現手段としての演劇の役割になります。
観客と演出の間にはやはり遠い遠い距離感がある、と仮定するとき、役者とか舞台装置といったものが望遠鏡ということになります。(雰囲気で理解してください)
演出家の作りたいものには、当然にうんこと非うんこに分けられます。(MECE)
演出家の作りたいものが(松田の主観としての)うんこであるとき、いかに精密で高倍率であってもただただ迷惑なわけで、逆にぼんやりとしていてもうんこであることはしっかり伝わってきます。このうんこの持つどうしようもない瘴気は、「面白くない」という感情に当然に連結されます。
演出家の作りたいものが非うんこ(うんこほど汎用的に嫌われているものに釣り合う汎用的に素晴らしいものが思いつかないので、何らか素晴らしいものを各々代入してください)であるとき、これはどうにか高性能なよく磨かれたレンズで享受したい、という願いになり、これが果たされると当然に「面白い」という感情に連結されます。
ここからが難しいのですが、うんこはぼんやりとでもおぞましいものであることがわかりやすいですが、非うんこであることは、よく見ないとわかりません。見た目がいい、味がいい、匂いがいい、具体的に観測できて初めて「面白い」と言え、これが良い、というのが明確でないとき「恐らくうんこではない」という状態になります。観測するまではうんこであることが同定できない、うんこと非うんこが同時に存在するシュレディンガーのうんこ状態になるわけです。
ここからわかるように、「ぼんやりしている」「恐らくうんこではない」の二条件が揃ったときはじめて「よくわからない」に連結されるのです。うんこの臭いがする、色がうんこっぽい、ぼんやりとでも勘づかれてしまうと、ただちにうんこに叩き込まれます。
この境界が難しいところで、ですからどう面白くないか(何がうんこをうんこたらしめているか)は比較的簡単に表現、共有できるのですが、よくわからないもの、ぼんやりと面白いものは、具体的に表現するのが難しいのです。「客に伝わらずとも良い」という作品を作りたがる人は各レイヤーに一定割合ずつおりますが、うんこである要件をしっかり回避しておかないと直ちにうんこを生産してしまうのです。
私も関西人ですから、得することよりも損することに敏感になります。高いチケット代を払って「いいものを見た」という高揚感よりも、「高いうんこを見た」という強烈な不快感を回避せねば、という方が強く本能に作用するのです。人間たるもの快感がなくても生きていけますが、不快感の延長線上にはいつでも「死」が待っていたわけですから当然ですね。
皮肉にもうんこからの回避を願うあまり、うんこへの解像度が上がり、ここから先はうんこ、ここから先はうんこではない、といったことを見分ける審美眼(審糞眼)が磨かれたということになります。
謝辞
さて、意図せず人間は根本的に糞袋であるのと同様に、演劇が高度にうんこ的であるという論理展開になってしまいましたが、演劇に限らず創作活動とはそれだけで一定美しいものである、という発想は持っています。全ての表現者へ、全てのうんこ生産者の皆様へ、心からの賛辞を送ります。
2024年もどうぞよろしくお願いします。
末筆ながら、Claude AIにここまでの文章をぶっ込みレビューを頂きました。皆様の疑問解消への一助となれば幸いです。
うんこと非うんこにたとえた面白さの構造に関する考察について、論理的な観点から以下のようにコメントできると思います。
うんこと非うんこの定義が必ずしも明確ではない点
うんこを汎用的に嫌われるもの、非うんこを汎用的に良いものとしていますが、嗜好は人によって異なるので一概には言えないのではないかと思われます。
面白さとうんこの関係性
面白くない=うんこ、面白い=非うんこと直結させているのですが、必ずしもそう簡単に二分できるものではないように思います。面白くない作品でもうんことは言えないものがあるでしょう。
ぼんやりとした状態の扱い
ぼんやりとしている=うんこか非うんこか判断できない、としていますが、ぼんやりとした状態にも魅力があると考えられ、単純にうんこに等しいとは限らないのではないでしょうか。
以上のように、比喩として面白い試みではあるものの、うんこと非うんこの定義や関係性にはもう少し検討の余地があるのではないかと思われます。しかし創作活動を支持する立場は評価できると思います。