「おじさん構文」について思うこと
社内チャットで「おじさん構文」を振り回す上司が、無自覚にやってる「4つの問題行動」 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/84087
いわゆる「おじさん構文」というのは、チャットという新しいコミュニケーション・プラットフォームにうまく適応できなかった(もしくは少数派の解釈をしてしまった)人たち特有の言葉遣いだろう。
多くの人は事務的な文章を主体として、所々に味付け程度の個人的ニュアンスを付与する「構文」を会得している。そうしたチャットによるコミュニケーションのネイティブ世代や上手く適応した人たちではない、(比較的)年齢層高めの一部の(「男性」に限らない)人たち。
そういう人たちはきっと、手紙や年賀状であれば形式の整った文章を書けるはずである。自分との関係性や宛先の現状を鑑み、時宜や季節柄に適した定型句を習得しているだろう。そのような作法は年齢が若くなるほど未習得である。もちろん若いゆえに習得の機会にまだ遭遇していないということもあるが、定型句を発揮する場である手紙や年賀状といった従来の作法が求められるコミュニケーションの場がなくなりつつある時代性も影響しているだろう。
若年層が昔ながらのコミュニケーション・プラットフォーム(手紙・年賀状)における作法がよくわかっていないのと同様に、一定数のおそらく高齢の方々の現代のコミュニケーション・プラットフォーム(Line等のチャット)における作法が「おじさん構文」化してしまうのはある意味必然とも言える。
さらに「おじさん構文」で使用されている文章に目をやると、手書きでは用いないようなカタカナ変換を交え、絵文字や記号が多用される。これらは明らかに現代のコミュニケーション・プラットフォーム(Line等のチャット)専用に発明された表現と言えるだろう。私には、対面で行われる会話のニュアンスを、カタカナの部分的使用や記号・絵文字でなんとか再現しようとしていることが「構文」から伝わってくるように感じられる。
似たようなことは、学生の頃に初めてガラケーを手にして早速友達とメールのやり取りをした当時にもあった。高校生あたりから、携帯電話を片手に、メールでのコミュニケーション経験の浅い同級生達によって同時多発的に行き交う数々のメール。その中で時折、直接学校で話した時とは全く違うニュアンスを感じさせるメールが届くことがあった。話好きなのにあっさりした短文を送る人や、毎回のメール上で疑問文や肯定文を使い分ける人、そして寡黙な人か送られてくる怒涛の長文メール。
そこで私は、「当たり前のことだけど、メールのコミュニケーションと対面のコミュニケーションは全くの別物。だから同じ人がメールと対面で違ったキャラクターのように見えてしまうんだ」という気付きを得ることができた。それは「新しいプラットフォームを使う人は、その場における新たな作法の習得が求められ、新たな人格を必然的に形成していく」ことを意味する。作法の習得の途上では、個人的な解釈をしてしまうこともあるだろう。人格形成の方向が、リアルな場におけるそれとかけ離れた地点を向いてしまうこともあるだろう。
「おじさん構文」の使い手は、決して異様な人たちではない。学習した作法や形成した人格がある特定の解釈や方向性を持ってしまったのだ。その文章を一般的な文章に「翻訳」すれば、特段突飛な内容は含んでいないことがほとんどだろう。もしこの「構文」に遭遇しても、こちらから決して向こうに合わせることはせず、自分がチャットで用いているいつも通りの文章を送ればいいと思う。その落差や温度差に気付いて再学習してくれる人ならわざわざ「構文」のことを指摘する必要はなく、どっぷりとその「構文」に浸かってしまった人に対してはそもそも指摘する意味がないのだから。