『そもそも植物とは何か』の感想
フロランス・ビュルガ 『そもそも植物とは何か』(2021)河出書房
本書の主張は、植物は、人間や動物とは決定的に異なった存在であり、人間や動物との比較でもって植物を理解することはできない、というものだ。その主張と対になるのが、ペーター・ヴォールレーベンの『樹木たちの知られざる生活』(早川書房)に象徴されるイメージである。そこで植物は、人間や動物と共通する知覚や感情を持っており、私たちと同じ生命として尊重しなければならない、とされている。こうした議論はこの書籍に限ったことでは無く、エドゥアルド・コーン『森は考えるー人間的なるものを超えた人類学』(亜紀書房)やエマヌエーレ・コッチャ『植物の生の哲学』(勁草書房)等でも見られるという。
そうしたトレンドは、根拠のない「「ネオ・アニミズム的」というべき「信仰」」(p8)に基づいているとビュルガは一蹴する。現状の科学で検証可能な範囲では、動物であれば人間と同様の知覚や感情を持っていることが確かめられている。その人間と共通性を持つ生命の範囲を、動物で止めずに植物まで広げてしまったのが上記の著作であり、そうした議論が少なくない人たちに受け入れられていることに危機感を(そして苛立ちを)ビュルガは抱いているようである。
人間・動物と植物が同じカテゴリーの生命であるという議論でよく使われるのが、「類推」と「擬人化・擬動物化」である。植物を研究し理解するために動物の身体や行動からの「類推」が使われ、化学反応に基づく植物の成長や変化を「擬人化・擬動物化」して捉えることで、植物が喜びや悲しみといった感情を持っていることが主張されたのである。
動物と植物をミクロな物質の化学反応やマクロな地球環境といった視点から見れば、生物という一つのカテゴリーへと収めることができる。だが植物は周囲との複雑な関係性を持ち、動物における死があたかも存在しないような新たな芽吹きを繰り返している。そういった意味で植物は単独の「個体」としては確立しておらず、それゆえ個別の「意思」や「感覚」を持つことがない。つまり植物は「主体」として存在していないことになる。「植物の生命を理解する難しさのすべては、植物がほかの要素と築く関係性にある。その関係性には「主体」が存在しないため、植物は「主体と客体」の関係性を築かない。かなり複雑な関係性なので、存在論上の新しい定義を見つける必要がある」(p69)
そのような植物に対しては、既存の人間的動物的な定義を当てはめることはできない。個別の主体を構成する身体や精神状態の「程度」の差ではなく「性質」そのものが異なっていることを認識しなければならないのである(p189)。
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この本で主張されていることはあくまで、一般社会に流布している植物という「観念」への批判である。人々が森の木々や美しい花へと感情移入し、「「ネオ・アニミズム的」というべき「信仰」」を持つことを哲学的に批判しているのである。そのため本書では、生物学・植物学よりも哲学・思想の文脈から植物をいわば脱-定義しており、植物「観念」への批判として読む分には、あり得る一つの立場を示していると言えるだろう。
一方、本書を読めば分かる通りビュルガの筆致からは強烈な危機感や苛立ちともとれる思いがにじみ出ている。これは「訳者あとがき」にもあるように、ヴィーガンであるビュルガの立ち位置とも関係しているだろう。上記で引用した箇所を、もう少し長く引用してみる。
植物の権利を主張することで人間や動物との差異を極小化し、「生物はみな同じように苦しい思いをする。なのに人間や動物は守られて、植物だけがなおざりにされるのはおかしい。だったら、どんな生物に何をしてもかまわないだろう」という主張がまかり通り、結果的に「何を捕食しても倫理上は間違っていない」という「危険な主張」になりかねない(p8.9)。
つまりビュルガは、植物の権利が主張されることで、相対的に「動物の権利(Animal rights)」の意義が薄められ、(ベジタリアンやヴィーガンの)動物擁護の言説を批判する流れを生み出す、と考えているようである。
こうした危機感がどれだけ妥当なものか私自身はわからない。けれどもその危機意識が本書全体のテンションを維持しているとともに、独自の方向性へ固執させていることも事実だろう。そうした前提がありつつも、一貫した批判意識に貫かれた本書の立場は、植物を哲学するための一つの立場を示していると言えるだろう。
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