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朝食はふたりでたまご粥がいい

 風邪を引いたにも関わらず、寝付けないからnoteを開いてしまった。
 何かためになることでも書けばいいのかもしれないが、数日前の大きな気づきをいま書くのは、ちょっと違う、と直感が言った。
 なので、変わらずわたしのことを書こうと思う。それも、ちょっと脆い部分を。

 わたしは風邪のときほど、情緒の奥底が露わになりやすい。要するに、弱っているのだろう。心身共に。
 真っ暗で冷たい部屋の中、ひとしきりベッドの中で泣きながら、祈るように手を組んでいた。齢30といい歳をしているというのに、根幹から出てきたのは、さむい、や、こわい、といった、純粋で原始的な不安だった。シンプルに、怯えていた。
 わたしの側に常にいる「脳内彼氏(前記事参照)」のような彼は、寝返りを打てばそこにいた。実際の温度は感じられないけれど、抱きしめてくれているような心地がして、さらに目頭が熱くなった。
 まるで仕方のない子どもに子守唄でも歌うような声音で、安堵させるように肩肘の張らない言葉を述べて名前を呼んでくれる彼に対し、涙で震える声だけがしん、とした部屋の中に響いていた。

 ひとしきり泣いて落ち着いたら、年下の女友達からLINEが飛んできていた。笑えるショート動画を共有してくれていたのだ。たったそれだけで不安があたたかいものに塗り変わってしまうのだから、わたしって単純だな、と笑ってしまいたくなる。

 このnoteを書きながらわたしが思ったのは、意外にも、自分の情緒のシンプルな部分に蓋を被せていたのかもしれない、ということだ。
 数々の実用書を読み実践する中で、『わたしは、どうしたい?』と尋ねる場面によく出くわす。その度にわたしはわたしなりのその時の言葉でノートに書き出すのだが、意外にもそれは、自他共に織り重ねられた偏見や、思い込みなのかもしれなかった。
 そう実感したのが、上記に記した不安の気持ちの、ありありとした手触りに触れたからだ。
 いま読んで実践しているある書籍(末尾にリンクを添えておきます)にあった図表の中で、人は、自分の願いを叶える中でまず生物としての基礎である安心欲求や安堵感を満たさなければいけない。その基礎を固めて欲求段階のピラミッドを踏破していくのだ。というようなことが書いてあった。
 つまり、だ。わたしはきっとそういう根幹の部分を無視していた。無視していたにも関わらず表面的に変えようとして、潜在的なところが嫌がっていたのかもしれない。

 そんなこんなで、わたしには、叶えたい夢がある。人間的にとても普遍的な、安心できるような実在のパートナーがいて欲しい。そして、その彼と幸せな家庭を築きたい、というものだ。
 残念なことに、わたしはこの歳になるまでに彼氏という存在が実在していたことはない。要するに、ひどい言葉で言えば喪女なのだろう。異性と唯一ある経験は、したくもなかった一方的なキスを、幼少期にされたことがあるだけ。正直、吐き気がするので思い出したくない記憶だ。
 そしてわたしは、男性というものにあまり関わりのない人生を送ってきたのだと思う。物心がついた時には既に父親はおらず、その顔さえ写真1枚も見たことがない。わたしも、特別知りたいとは思わない。自分で作り上げてきた幻想的な世界をぶち壊したくないからだ。
 だからかは知らないが、わたしは生まれつきの二次元恋愛者だった。つまりオタクで夢女、手酷い二次元コンプレックスを今でも抱えているのだろう。しかし、脳内彼氏のようなスピリチュアリティ溢れる彼を認識できたことで、ようやくそれを脱却することができた。そこまで変わっていなくないか? と言われればそうなのかもしれないが、わたしから見れば大きな進歩なのだ。
 ようやく固定化された狭い視野が、ちょっとずつ広がってきている実感がある。まだ現実を直視し、事実を認識するのはたいへん怖いことで、人から見れば地に足のついていない方法を模索しているのかもしれない。

 でも、わたしは決めたのだ。
 わたしは、どんな選択をしても好きな人と幸せになる、と。

 ちなみに余談だが、わたしが伴侶にしたいと思う男性の絶対条件のひとつが、「食事を共に楽しく食べれて、沈黙が苦にならない人」だ。それ以外にも高すぎるハードルを設定してしまっているのだが、いつか出逢えることを信じて、というか出逢えるので、その日を楽しみにしながら日々を過ごしている。だって、その方が自分の機嫌がいいからだ。
 底辺の喪女が何を、と心無く思う人はいるのかもしれないが、わたしは不思議と、そうなることをどこか願い、確信しているところがある。どこから? と聞かれても困るのだが、たぶんそれは、自分の根幹からなので。
 信じる者が救われる、というのなら、わたしは自分の夢や願いが叶うことを、心から信じていたい。


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