中共軍の砲兵3


中共軍砲兵隊の誕生

1930年頃、岳州を占領した中共軍は「七十五ミリ野砲四門と山砲数門」を鹵獲した(※1)。
このことを彭徳懐は「紅軍ははじめて砲兵を持つことになった」と回顧している。

彼によれば、当時の中共軍で砲の操作が出来たのは、彭徳懐と武亭(※2)だけだった。

(なお、これらの砲を使用して外国軍の軍艦を射撃した結果、命中弾を得たという)

この証言から推察できるのは、第一次国共内戦時点では砲の操作が可能な人員がほぼゼロに近かった点だ。
そして砲の数も、全軍で一個中隊程度しかなかったのだろう。

しかし、完全にゼロではなく、わずかながらでも砲兵があった点は見逃すべきではない。
この星の光のように小さな砲兵が、のちに荒野を焼き尽くす炎のように大きく成長していった可能性は否定できない。

※1 彭徳懐『彭徳懐自述 中国革命と共に』サイマル出版社、208ページ※2 朝鮮半島出身者。のちに総司令部付砲兵連隊(中共軍唯一の砲兵連隊)の連隊長となった。


新四軍の砲兵技術

1944年に新四軍の捕虜となった日本軍将校の証言(※3)である。

彼は終戦後の1946年に新四軍の砲兵学校の教官となった。
そのときに中共軍の測距法を聞くと、「夜中に縄をくくって敵陣近くまで行き、その縄の長さを測った」という答えが返ってきた。
それはダメなので、彼は三角測量の方法を教えたという。

この証言から推測できるのは、日中戦争下における新四軍の砲兵は三角測量すらできない水準であった点だ。

ここで注意したいのは、新四軍は主力(八路軍)と地理的に離れていたため、中共軍のなかでも技術的に遅れていた可能性である。
そのため、主力の技術水準はより高度であった可能性は否定できない。

※3 藤原彰ら 編『日中戦争下 中国における日本人の反戦活動』青木書店、190ページ。

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