【2】百団大戦における岡崎大隊の戦闘
『戦史叢書 北支の治安戦〈1〉』
日本軍について知りたいことがあれば、まずは戦史叢書だろう。
残念ながら、ざっと見た感じでは、本戦闘に関する記述は確認できなかった。
しかし、中共側史料の引用の中で、本戦闘について述べられていた。
(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 北支の治安戦〈1〉』朝雲新聞社、一九六八年、370ページ)
この史料によれば、やはり彭徳懐が指揮を執ったようである。
また、百団大戦は3つの段階からなり、この時期は最後の「第三段階」(日本軍の反撃)にあたるという。
しかし、参戦した中共軍は「第五、第六、第十〇旅及び決死隊の各一部」となっている。
部隊名が奇妙である。
中国軍は極めて大規模なので、ヒトケタの部隊は珍しいはずだ。
秘密保持のための「偽名」だろうか。
それとも、国民政府の許可なく、中共が独自に建設した部隊なのだろうか。
また、交戦した時期は10月30日夜から31日のようだ。
30日の夜から「白兵戦を繰り返し」、翌31日も「数回の突撃を反復」し、日本軍の「大部を殲滅」したという。
日本側史料による損害の実態
興味深いのは、ここに戦史叢書の著者による注がついていることである。
注によれば、大隊の「戦闘参加人員」は525名(※)であり、うち戦死は61名だという。(負傷者数は記載されていない)
つまり、「全滅」したわけではないのだ。
中共軍は、敵の全滅のみを勝利としていたはずなので、これは彼らにとっては敗北だろう。
※文字の印刷が不鮮明、535名の可能性あり。
彭徳懐の証言
次に、彭徳懐の自伝を調べてみた。
これまでの史料から、戦闘の指揮を執ったのが彭徳懐の可能性が高いからだ。
彼の自伝『彭徳懐自述』には、百団大戦の項目があった。
なんと、ここで彭徳懐は、「百団大戦の後期」に乱暴な指揮をしたと自己批判していた(彭徳懐『彭徳懐自述』サイマル出版会、320ページ)
彼によると、戦闘後に十分な「休息・整頓」を行っていないにもかかわらず日本軍1個大隊(※)を攻撃したため、第129師に「わりあい多くの死傷者」が出たようなのだ。
これが本戦闘と断定できるわけではないが、可能性は高い。
時期や部隊が他史料と符合するからだ。
※傀儡軍も同行していたようだ
まとめ
これまでの史料から推測すると、岡崎大隊を攻撃したのは129師を基幹とする部隊で、彭徳懐が直接指揮。
包囲殲滅を企図したが失敗し、大きな損害を受けたようだ。
次は、中国側史料をもっと調べてみたい。
しかし、私は中文が読めないため、紙媒体では不可能だし、入手も困難だろう。
そこで、テキトーに中文サイトを調べることにした。
言語の問題は、ブラウザの翻訳機能でカバーする。