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ぶらり関西みて歩記(あるき) 天王寺七坂

〔第4回〕
愛染坂

■坂の名は愛染さん由来

その名の通り、坂を上りきったところにある愛染堂勝鬘(しょうまん)院に由来する。

まだ元号がなかった西暦593年(推古天皇元年)、聖徳太子は敬田院、施薬院、療病院、悲田院からなる四天王寺を建立した。現在の勝鬘院が建っている場所も、当時は四天王寺の境内だった。

施薬院では薬草が栽培され、病を患う人々に分け与えられたという。社会福祉施設発祥の地ともいえるのだ。

勝鬘院の本堂には愛染明王が祀られ「愛染堂」とも呼ばれることから、親しみを込めて「愛染さん」と呼ばれる。

愛染さんの境内にある「愛染めの霊水」を飲むと、愛が叶うといわれている。また小説家・川口松太郎の代表作で映画化もされた「愛染かつら」のモデルになった縁結びの霊木には、その前で愛を語り合った男女に幸せな結末が待っているという伝説がある。

愛染坂

■料亭「浮瀬(うかむせ)亭」跡

今はコンクリート舗装されて車も通れる何の変哲もない坂道だが、わずかに歴史の痕跡を見ることができる。

江戸時代、ここに「浮瀬亭」という料亭があった。歴史顕彰板の解説によると、開業した時期は不明ながら寛政10年に刊行された「摂津名所図会」や安政2年に刊行された「摂津名所図会大成」と「浪華の賑ひ」などの地誌に挿絵付きで紹介されている。

総二階の大きな料理屋で、四天王寺や清光院の参拝客を相手に商売をしていたようだ。

「浪華の賑ひ」に当時の様子が書かれている。

「此遊宴の楼ハ新清水の坂の下にありて風流の席なり。遙に西南を見わたせバ、海原(わだのはら)往来(ゆきこ)ふ百船(ももふね)の白帆、淡路島山に落かかる三日の月、雪のけしきハ言(いふ)もさらなり」(原文には句読点なし)

現代より海岸線が内陸部に近かった時代、大阪湾を行き交う船の白帆や、さらに遠くに目をやれば淡路島を望むことができたのである。

松尾芭蕉がこの世を去る半月ほど前、浮瀬亭で半歌仙を詠んでいることが複数の門人の日記に記されている。

その中のひとり和田泥足(でいそく)が元禄7年に記した「其便(そのたより)」によれば、開業当初は「晴々亭」という屋号で「浮瀬」という奇杯を所蔵していた。大きなアワビの穴を塞いでつくられた7号半(約1.35リットル)の貝杯のほか、巻貝の杯「幾瀬」、夜光貝でつくった「鳴門」、オランダから渡ってきたという「春風」、アワビの貝でつくった「君が為」「梅がえ」が紹介されている。さらに7人の猩々(しょうじょう)が描かれた朱塗りの「七人猩々」は六升五合(約11.73リットル)という大器で、2人がかりで飲んだという。

これら奇杯の存在は江戸にまで伝わり、いつしか正式な屋号より「浮瀬」が有名になって、浮瀬亭と呼ばれるようになったようだ。

浮瀬亭の営業は明治まで続き、明治25年から28年に書かれたと推察される「浪華百事談」第9巻の巻末に、それをうかがわせる記述がある。

浮瀬亭の跡地には今、大阪星光学院が建っている。

●愛染坂:大阪市天王寺区下寺町2-4-3/距離:106m・高低差:10m・平均斜度8度

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