フリーライターはビジネス書を読まない(72)
このままでは帰れない
佐久間の下宿は6畳と4畳半の和室を襖で仕切られてあった。6畳間は寝室と書庫を兼ねているから、立ち入らないでほしいという。
4畳半の部屋は片隅にパソコンデスクが置かれていて、もう片側の壁にガラス扉のついたショーケースがあった。中にはヒーローもののフィギュアが無数に並べてある。
「こういうの好きみたいなんですよ」
柳本が「ふっ」と笑った。
部屋といっても、マンションやアパートの類ではなく、いわゆる学生向けの下宿屋。各部屋は、狭い通路を挟んで襖で区切られているだけだ。
時折、ほかの下宿生が通路を歩く足音が聞こえる。階下にあるトイレを流す音とともに、再び上がってくる。
そんな環境だから、。話し声には気を遣う。
だが、佐久間が警察署でいったように「(柳本が)下着姿で抱き着いてきた」のが本当なら、ほかの部屋にいる学生のことは頭になかったのだろうか。
これからひと眠りしようにも、時間が中途半端だ。始発で帰りたいので、起きておくことにした。
柳本も、全然眠くないという。
部屋にCDラジカセがあった。
「なにか音楽かけましょうか」
こんな夜中に?
私の返事を待たず、柳本はバッグから鬼束ちひろのCDを取り出して、ラジカセにセットした。
やっと聞き取れるぐらいまでボリュームを最小にして、再生ボタンを押す。
「流星群」が流れてきた。
「もう、ここへも来られませんね」
柳本がボソッとつぶやいた。「こんなことしちゃったし……ていうか、彼の小ささを見てしまいましたから、あたしの気持ちが冷めました」
「……」
「さっき、警察にいるとき、震えてましたよね」
「寒かったからじゃないの」
あえてトボけた。
「違いますよ。怖かったんですよ。おぼっちゃまだから」
「おぼっちゃま?」
「彼、地元で有名なお金持ちの家の子で、家庭教師をつけて、大きな塾にも通わせてもらって、学年でいちばん成績が良くて……。警察を呼ぶのだって、そうとう勇気が要ったはずですよ。それでも呼んだってことは、あたしがそれだけのことをやったからなんですけどね」
佐久間が今までたいした苦労を味わっていないという想像は、大筋で当たっていたわけだ。
柳本は静かに語り続ける。
「あたしは古紙回収をやってる家に生まれて、今は兄が継いでますけど、兄は粗暴な性格ですぐ暴力をふるうから、人を雇ってもすぐ辞めるんです。結局、仕事を兄1人で全部やる羽目になって、それもまた自分のせいだと気づいてないから、よけいにイライラしていて、年じゅうイライラしてるんです。あたしが家にいると、仕事を手伝わないと機嫌が悪いし。だから短大を出たらすぐ実家を出たんですよね」
柳本に兄がいることを初めて聞いた。実家のことを聞いたのも初めてだ。
なんで、こんなことを話し始めたんだろう?
「前に、いまさら帰れないっていいましたよね。それもあるんですけど、本当は帰りたくない気持ちもあるんです。夫にはもともと愛情を感じてないし、あの兄がいる実家にも帰りたくないです。もう彼とは終わったかもしれませんけど、なんとか仕事をみつけて、こっちで生活することを考えています。平藤さんのところも、早く出ないとご迷惑でしょ」
「はい、迷惑です(心の声)」
でも、うちを出てくれるのであれば、柳本が大阪に居続けることを反対する理由はない。
そのまま話は途切れ、いつのまにか2人とも少しウトウトしていたようだ。ふと気が付くと、もうすぐ始発が出る時間だった。
不自然な格好で座っていたから、体の節々が痛い。
「さて、行こうか」
「はい」
暖房を落としたら、部屋はそのままにして出てくれていいといわれている。
まだ暗い道を歩く。京阪電車「出町柳駅」は、思いのほか下宿から近かった。発車を待つ列車内には、客は私たちのほかに数人。扉が開けっ放しのせいか、ホームが地下にあるのに、時折冷たい風が吹き込んできた。
「帰ったら彼に、お詫びとお礼のメールを出します。たぶんそれで最後になります」
その夜、私は柳本の旦那にメールを打ち、事の顛末を詳細に知らせた。
すぐに返信があった。
〔年末に迎えに行けそうです。聡美を納得させる口実を考えないといけませんが〕
(つづく)
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