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ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑

〔第12回〕
川端康成

■700年続く名家

「伊豆の踊子」「雪国」「古都」「千羽鶴」など数々の名作を世に送り出し、その名が世界にも知れ渡っている川端康成は、明治32年6月14日、大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現、北区天神橋 1丁目)で生まれた。

川端家は、北条泰時の孫・川端舎人助道政を祖先にもつ名家で、康成は31代目にあたる。

父・栄吉は開業医だったが、経営が思わしくないうえに肺を病んでいた。しかも無理を重ねて病状が重くなったため、康成が1歳7カ月のときに妻(康成の母)・ゲンとともに淀川区へ移転した。

ところがゲンも感染していたため、康成は姉の芳子と一緒にゲンの実家へ預けられ、両親と離された。それから間もなく、栄吉とゲンが相次いで死去し、2人は祖父母に連れられて今の茨木市へ移った。

両親の早すぎる死は、幼い康成の心に「父母が死んだ年ごろまでに、自分も死ぬかもしれない」という強烈な不安を抱かせ、病気と死への恐れを深く刻みつけたといわれている。

川端康成生誕の地

■文壇デビューとノーベル賞

東京帝国大学国文学科に進んだ康成は、文芸時評で頭角を現した後、同人誌「文藝時代」を創刊する。新感覚派として注目を集める一方で、詩的、抒情的、心霊的、神秘的、少女小説などあらゆる手法や作風を駆使して「奇術師」とも称された。

数々の名作を送り出した康成の功績で特筆すべきは、日本人初のノーベル文学賞受賞である。昭和43年10月17日に正式決定し、19日にスウェーデン大使のアムルクイスト氏が川端宅を訪れて、受賞通知と授賞式の招待状を手渡した。

あまり知られていないかもしれないが、昭和36年に初めて受賞候補になってから毎年のように候補に挙がっており、7年越しの受賞だった。

日本人初ということもあって、メディアの取材は苛烈をきわめた。康成はこれを内心あまり快く思っていなかったようだ。

授賞式が行われるスウェーデンへ発つ12月3日の朝のこと、自宅を出る間際、急に不機嫌になって「みんな、勝手に行ってらっしゃい。わたしは行きませんよ」といい出した。

節度のない報道に鬱憤が溜まっていたと思われる。今風にいうと「キレた」のだろう。そうはいいつつ、授賞式には紋付き袴姿で出席している。

■新人の発掘、そして最期

ノーベル賞を受賞した後も数々の文学賞を受賞した康成は、新人を発掘する名人でもあった。武田麟太郎、藤沢恒夫、豊田正子、岡本かの子、中里恒子、三島由紀夫などの新しい才能を育てた。

日本ペンクラブや国際ペンクラブにも力を尽くして多忙な日々を送っていたが、昭和47年4月16日の夜、世間を驚かせた出来事が起こる。康成が突如、この世を去ったのである。自ら72歳の生涯を閉じたのだ。遺書はなかった。

●川端康成文学碑:アクセス/阪堺電車・住吉鳥居前駅から徒歩1分。南海本線・住吉大社駅から徒歩3分。住吉大社境内。

●川端康成生誕地の碑:アクセス/地下鉄谷町線・堺筋線、南森町駅またはJR東西線・大阪天満宮駅、3番出口から徒歩6分。料亭相生楼。

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