フリーライターはビジネス書を読まない(43)
「ある人を懲らしめたいの」
宴会コンパニオンの派遣をやっているプロダクションの女性経営者と連絡を取って、バイトが終わったあとの午後の時間に、先方の事務所を訪ねることになった。
宴会コンパニオンは、ホテルの宴会場やパーティー会場などで、客に飲み物を勧めたり運んだりして、宴会に華を添える役割だと聞いた。その元締めみたいな仕事をやっているようだ。
事務所は、心斎橋のにぎやかなエリアから少し離れた場所にある古びた雑居ビルの一室で、玄関のドアには会社名の表示がなかった。電話で聞いた部屋番号は、ここで間違いないはずだが。
指定された時間に訪ねても、インターホンに応答がない。ドアには鍵がかかっている。ノックしても反応がなかった。人の気配がないのだ。
仕方がないので、ビルの入り口でしばらく待っていると、
「ご連絡した作家の方ですか?」と声をかけられた。
作家ではない。ライターだが、一応「そうです」と答える。
化粧っ気がないのに派手な印象のある、歳は30歳くらいかと思われる小柄な女性だった。
「畑中です。すみません、遅くなって」
後について、さきほどの一室に入っていく。
決して広くはない室内に、事務机と応接用のソファが置いてあり、壁際の書棚にはファイルが無数に差し込まれている。その背表紙に「ホテル○○」とか「○○荘」という手書き文字が見えたから、顧客管理簿みたいなものなんだろう。
応接セットではなく、事務机の対面を勧められた。座ると、冷蔵庫から出したままの缶コーヒーを目の前に置かれた。なかなか雑な扱いを受けている印象が拭えない。
見たことのないメーカーの缶コーヒーだ。苦みと焦げ臭い味がして、一口でギブアップした。
口の中に、いやな味覚が残る。
「自伝を出したいとのことでしたが……」
早めに切り上げたいから、こっちから用件を振る。
「原稿は、もうあるんですよ」と畑中はいう。「文章の体裁を整えて、読めるような形にしていただきたいんです。自費出版の費用って、いくらくらいかかるのかしら」
畑中は私から見える位置に、脚を組んで座った。そのとき気が付いたが、畑中が着ているミニのワンピースの、背中が大きくあいている。そして、どういうつもりか知らないけれど、時折、背中が見えるように、不自然に体をくねらせるのだ。
申し訳ないが、スタイルはよくない。何の感情も湧いてこなかったのが幸いして、話を冷静に進めることができた。
「要するにリライトですね」
「いい方はよく知らないんですけど……」と畑中は、あきらかにわざとスカートをひるがえして立ち上がって、カバンから分厚い紙の束を取り出した。
「これなんです」
A4の紙に印字された原稿だった。ところどころに、自分で修正したあとが見える。
それにしても、このボリュームの多さ。いままで単行本を書いてきた経験からいって、200ページの本なら3冊分はある。
「何冊出すんですか?」
「1冊です。それじゃ足りませんか」
「いや、1冊だったら、この文字量は多すぎます」
「字を小さくすれば」
「読みづらくなります」
「減らしたくないのよ」
畑中は短い脚を組み替えた。うっかりして、スカートの奥が視界に入った。努力は認めるが、色気の「い」の字もない。そもそもなんで、色気で押してくるのだ?
「それは、追々考えましょう」
文字量の件はいったん保留にして、もうひとつ気になっていることを訊いた。
「失礼ですが、まだお若いですよね。なのに自伝ですか?」
「そこにも書いてありますけど、ある人を懲らしめる目的もあるんです」
「はぁ……」
なんだか穏やかではない。ことと次第によっては、名誉棄損の共犯にされかねないかも。もっとじっくり話を聞いたほうがいい。
「自費出版でつくって、この本は売るんですか? それともお得意さんへ配布ですか?」
「売ります。宣伝はしないで、クチコミで売りたいんです」
素人が書いた私家版の本がクチコミで売れるわけがない。
喉まで出かかったのをグッと飲みこんで、それ以上掘り下げるのをやめた。
話はいよいよ核心へ向かう。
「原稿料のことですが、これだけの分量のリライトは私も初めてなので、いったんお預かりして精査した後、見積もりをお出しします。よろしいですか?」
「わかりました。早めにお願いします」
その日は挨拶を兼ねて畑中の要望を聞き、正式な契約はせずに、自分のミッションを確認するにとどめた。
預かった原稿に目を通して、リライトの難易度を判定して金額を出すことにしよう。
それにしても、すごい量だ。原稿用紙に換算して、おおむね600枚分。これを200ページに収めろという。
難しいミッションになりそうだった。
(つづく)
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